goo blog サービス終了のお知らせ 

ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

50(歳)を過ぎたら板(舞台)地獄①

2007-03-05 16:15:19 | 演劇

 じゃ、始めよう。私の演劇修行のお粗末だ。

 今は、アマチュア劇団菜の花座の座長を務め、高校演劇部でも、過激に活動をリードしているから、学生時代から芝居にかかわってたんでしょ?ってよく聞かれる。滅相もないことだ。恐れ多いことだ。いや、興味はあったよ、憧れはあった。でも、その頃劇団って言ったら、寺山修司の天井桟敷に唐十郎の状況劇場でしよ、テント、アングラ、殴り合い(寺山が冗談で送った葬儀用花輪のせいで、両劇団員が大乱闘を演じたなんてことがあった。)だからね、とてもとても、よい子の近づける世界ではなかった。

 大学の演劇サークルにも何人か知り合いはいたけど、その連中も、まず、まともじゃなかった。芸者さんと同棲してて、その情人が刑務所から出所してくるからって、夜逃げした奴とかね。やたら理屈っぽくてね、吉本隆明の芸術論やら若松孝二の映画なんかの話題が、機銃掃射で飛んでくるんだ。勉強不足の私なんかは、無知蒙昧の輩をひらに、ご容赦をって感じで、小さくなってるしかなかった。

 さて、それから四半世紀。落とし穴は思いかげないところで待ち受けていたんだな。置賜農業高校の100周年。記念に学校上げて創作劇を上演しようってことになったんだ。よくも、そんな大それたことを考えたもんだよな。別に強力な演劇部があったってわけじゃないし、優秀な指導者が学内にいたってことでもない。まっ、気合いだね。その頃、百周年とか80周年なんて学校が、やたらあって、負けてられっか、みたいな向こう意気で突っ走ったってところだろう。二年間かけて仕上げることになった。

 で、最初のキャスティングでは、私、あえなく落選。いや、今だから言うけど、本当は、台本書きたかったの。演出もしてみたかったの。でもね、何の実績もないからね、自ら名のり上げるわけにいかないし、仕方ねえやって諦め半分、拗ね半分ってとこだったかな。脚本は置農演劇部元顧問の小林慶八郎先生、演出はやはり元顧問の小林岸子先生になった。まっ、妥当だよな。

 台本が上がり、OBや卒業生や地域の人たちの協力態勢も整って、さあ、稽古を始めようってところになって、準主役の先生が転勤してしまった。困ったんだと思うよ、プロデューサーの先生は。芝居ができそうな教員は、すでにあらかた配役済みだからね。残ってんのは、校長、教頭、それと私ぐらい。きっと、渋々だったと思うね、私しかいないんだから。私が演出だったとしても、きっと、がっくりだったと思う。だってね、転勤した先生は、上背も大きいし、顔立ちも整ってるし、声にも艶がある。すべて、私の正反対だったから。でも、運命ってもんは、ときどきこういったいたずらをするもんなんだよ。

 と、いうことで、元小松町町長・高橋嘉吉を私が演ずることになったのであります。うぉっほん!

 いや、これがねえ、格好いい役なんだよ。幽霊なんだけど、迷える主役の置農生を時に慰め、時に叱咤激励して、家の農業を継ぐことを決意させるっていう役所。不良学生相手に、ステッキ使った立ち回りなんかもあったりしてね。それに、衣装がなんたって、素晴らしい。フロックコートに山高帽だから。一度は、こんな服着てみたかったんだよね。で、近くの名家から本物の衣装をお借りしてみたら、これが、なんと、私にぴったり、きっと、芝居の神様、最初から、こういう筋立て考えていんだろうね。

 柄にもない準主役をもらって、いよいよ、私の、棚ぼた演劇修行のはじまり!はじまり! 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする