たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

7. 桜タワー/『研究コントローラー』

2016-07-09 00:04:53 | ネット小説『研究コントローラー』
 以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。

前のお話 6. 研究者として/『研究コントローラー』

******************************************************

2016年7月9日(土)

 となりの席から物音が聞こえた。そろそろ朝なのだろうと思って、腕時計をみると意外にも、もう午前10時。もう少し眠りたいが、14時過ぎには早田大学に行かなくてはならないし、そろそろ行動し始めよう。もう一週間以上も漫画喫茶・ネットカフェを転々と移動しているせいで、すっかり生活が乱れている。これもそれも、野崎のせいである。全国の研究室の連続失踪事件を解明するために立ち上げられたRC制度、こんなブラックな仕事は他に無いのではないだろうか?
 「走って逃げても構わない」野崎から言われたこの言葉がなければ、俺は今頃、何者かにつかまって、殺されていたのかもしれない。侵入した夜の大学、山岡教授の居室で、ドアノブが外側からがちゃがちゃと回りだしたとき、その恐怖からどうにか逃れようとして窓から外を眺めてみると、小学校の頃、大きな窓を開け、小さな身体を窓の外に投げ出して遊んでいた様子が頭をよぎった。もしかして、窓から逃げられる?思い立ったら行動するしか無い。遅かれ早かれ、誰かしらが、あの部屋に入ってこられたら、どうにもイイワケはできなかったし、直感的に危険を察知していたし、同時にスマートグラスとパラレル回線がハッキングされているかもしれないという気持ちから、野崎に指示を仰ぐのは危険に感じた。窓を開けると、非常階段がすぐ近くに見えた。4mほどじゃないか。あそこに移れれば。壁の外側はそれなりに凸凹している箇所も多く、なんとかなりそうであったし、そうするしか術は無い。運動神経にはそれなりに自信があるつもりでいるが、体操の経験は無い。どうする?でも、迷っている暇はない。万一、下に落ちたとしても、3階。ギリギリ死なない・・・気がするように思えた。足場さえ確保すれば。恐る恐る、窓の外側へ。その瞬間、ドアノブのがちゃがちゃという音がよりいっそう乱暴になった。早くしなくては!俺は思い切って、淵に手をかけながら、窓の外へ身体を投げ出した。一度、外に出てしまえば意外とラクなもんで、一歩また一歩と、何かの管の上を足場としながら、非常階段側へ向かった。なんとか非常階段にトンと着地したときは安心感を得た身体が萎縮するのを感じたが、まだ安心はできない。いつ、俺がここにいることとバレるともわからない。非常階段を下り、一番下まで降りてしまうとカギがかかっているため、踊り場から飛び降りた。飛ぶ直前まで、2階の半分だろ?大丈夫、と思っていたら、意外と滞空時間は長く、着地すると足がジンジンした。真っ暗なキャンパス内。なるべく人が行きそうにないところを通りながら、日吉駅まで走った。ほぼ全力である。窓から逃げて飛び降りまでした割には、駅まで息1つ切らさなかった。人間、死に直面すると、なんでもできるものである。漫画喫茶の文字を見つけ、そこで一晩過ごした。一睡した後、家に帰りたくなったが、家からパラレル回線を使って野崎に何度も連絡を取っていたために、家に帰るのは危ないように思えた。敵がどこまで掴んでいるかわからない。村川は出張中だし、彼女の香奈にはこの件に関わらせてはいけない。二人にはRCのせいで帰れないことだけを私用のスマホで伝えることにした。考えた末に、都心から少し離れた川崎・蒲田らへんに移動し、昼間はテキトウに街をぶらぶらし、夜は安ホテル・漫画喫茶に寝泊まりすることにした。最低限の着替えとカバンを買った。こういうときに、給与が高いというのは良いもんだ。一週間以上、そんなことをしているのに、緊急用に忍ばせている金のおかげで底をつかない。いや、この仕事をしていなければ、こんな目に合っていない訳で、そうではないか。
 ともかく、秘書の友川さんのパソコンの試薬リストから、無かったはずの水酸化ナトリウムの文字が現れた。それはスマートグラスで野崎から指示を受けたからで、おそらく、それを誰かがハッキングしていたからだろう。M2の原田愛菜。あの子は怪しい。最初から怪しかったし、あの子は発言に虚偽が混じっていそうなとき、いつも髪をいじっている。あのとき、D2の森下さんに午後イチはおかしいとツッコミをいれられた時も、髪をいじる仕草をしていた。野崎じゃなくても、何かやましいことがあるときの仕草は、見抜くのは簡単だ。だとすると、偶然の一致とは思えない。
 とにかくどうにか野崎にコンタクトをとらなくてはいけない。だが、どこでどうハッキングされているかもわからないため、スマートグラスとパラレルスマホをオンにすることはできない。野崎のメールアドレスは一般公開されておらず、最初に知り合った時の一般回線でのメールのやり取りに使用したメールアドレスは、破棄したと前に言われている。つまり、パラレル回線以外で野崎に連絡を取る術が無いにも拘らず、そのパラレル回線がハッキングされている可能性が高い以上、野崎に直接会うしか術は無い。だが、RC研究生と言えども、野崎の予定を逐一教えてもらっている訳ではない。だから、漫画喫茶で、野崎のSNSをチェックし、予定が発表されていないかどうかをずっと監視していた。川崎付近に来てから3日目。7月9日(土)に早田大で一般講演をする、という情報が拡散されていた。この14時過ぎからの一般講演を逃すわけにはいかない。特任准教授の高野先生には一般回線からメールで体調不良とずっと伝えているから、高野先生経由で野崎にも俺が慶明大に一週間以上行っていないことがわかっているはずで、にも拘らず、パラレル回線経由で俺から直接連絡が無いため、野崎自身も俺に何か異変があると気がついているはずだ。
 さて、出かけるか。

 早田大学はそれを取り囲む街全体として活気立っている。慶明大学と違って、メトロの駅を降りるとすぐに町中で、突然キャンパスが現れるといった印象である。街中に早田生が溢れ、みなどこかへ向かって楽しそうに喋りながら歩いている。こういう雰囲気は地方大学出身の俺としては、都会独特に感じる。学生達全員から、俺たち私たちはノリがいいぜ、と言わんばかりの雰囲気を常に全身から発し続けている。それにしても外は猛暑だ。特に、変装のためにカツラをしているため、顔がやたらに暑い。3月のJTSシンポジウムとなるべく同じような変装を心がけた。原田のような敵を欺く必要があるけれど、野崎本人には、俺が戸山渉だと気がついてもらわなくてはいけないからだ。まだ7月の前半。日陰に入り風が吹けば少しは涼しい。だが、ここの学生にはそんなヤツらはいないように思える。日陰にいるような連中は、おそらく皆、いまだに就職先が決まっていない就活生だろう。そんなことを思いながら、俺は、野崎の講演が行われる11号館へ急いだ。1101の教室で行われる。外部からの聴講者歓迎と書いてあり、俺は悠々と前のほうの席を陣取った。すぐに野崎に気がついてもらえるようにしなくてはならない。14時5分、野崎が教室の後ろからやってきた。俺は、その様子を見ながら、野崎のところに近づいた。そっと近づき、こちらに気がついたはずなのに、野崎は一切表情を変えない。わざとか?俺は、事前に準備した、三つ折りにした紙を無言で渡した。三つ折りにした状態で見えるように「渦巻きと頭に毛が3本」のマークを書いておいた。あの竹田講堂で謎の女性から渡された封筒に書いてあったマーク。おそらくあの記号は、野崎周辺の人間でも、なかなか知らないはずだ。
 「なんだい?この手紙は?」
 と、野崎は言葉を発した。手紙を開きながらさらに続けた。
 「あ、君は、私のファンだね。わかった、あとでじっくり読んでおくよ。返事はここに送れば良いかな?」
 と言いながら、手紙を俺のほうへ向けて、俺だけに見えるように、人差し指をゆっくり動かして、平仮名を一文字ずつ指してきた。
 “は か っ て い る 、 マ て”→”わかっている、待て”
 俺は短く小さく「はい」と応えた。野崎に見せた紙には、シャーペンで少し大きめの字で、次のように記した。
 「野崎先生、戸山渉です。一週間以上連絡しなかった理由は、パラレルスマホとスマートグラスがハッキングされていると確信したからです。講演のあと、確実に二人だけで話せる場を設けてもらっていいですか?」
 手紙の内容を読みながら、手紙に使った文字を使って瞬時に答えを返してきた。野崎に会ったら普通に話せば良いかと思ったりもしたが、いつどこに研究コントローラーの手先がいるとも限らない。念には念を入れておこうと思ったことが正解だったようだ。野崎に真意が伝えられ、席に戻る。壇上に目をやると、野崎が笑ってこちらを見ている。まったく、人の気も知らないで。その余裕はどこから来るんだ?そんな表面上の感情とは裏腹に、野崎の笑顔は俺に安心感を与え、その安心感からか、一週間以上孤独を絶え抜いた疲れが突然どっと押し寄せてきて、倒れそうになった。

 14時20分から1時間の講演はあっという間に終わった。題目は「研究生活のあり方」。野崎が作った25項目のチェックリストでテストを行うことで自分自身の研究遂行力の点数がつく。まず200人ほどの聴講者が一斉に5分間ほどでそのテストを行い、自己採点。その後に野崎が1つずつ実例を挙げながら各項目を解説していった。このチェックリストが、分野に依らず、ポジションや年数に依らず、かなり精緻に作られており、研究コンサルタントとしてオファーを受けた研究室に数週間入る際には、最初に必ずこのチェックリストを使ったテストをやるのだそうだ。とても面白そうではあったのだが、俺自身は非常に疲れていて内容が頭に入ってこなかった。終わった後、ちらほらと、野崎のもとへ人だかりができていた。名刺を交換したり質問したりと様々で、俺もその列に並ぶフリをした。いよいよ俺の番だと言うときに、名刺をさっと渡された。
 「君は私のファンだったね。私の今後の予定や情報をここでチェックできるよ」
 と走り書きされた文字を人差し指で指しながら、俺に微笑んできた。
 「わかりました、ありがとうございます」
 野崎の演技にやっと慣れてきた。名刺には急いで書いた野崎の字で「16時に東都医療研究センター研究所前で」と書かれていた。16時まで約30分。早田大の校門の前に地図があることを思い出し、そこに向かうことにした。別に私用の通常回線のスマホを使えば良い気もしたが、なんとなく抑制された。

 16時まで、あと5分。東都医療研究センター研究所の前は、人通りがない。早田大からここまでは歩いてだいたい15分ほどだった。病院と併設されている研究施設のようで、一度病院側のほうへ向かったが、人通りが出てきて、こちらではないと察した。人気を避ける気がしたからだ。わざわざ「研究所」とつけたのはそういう理由か。それにしても、こんなにも人が少ないところで大丈夫だろうか?人がいなさすぎて、襲われる危険性が高い気がした。目の前には生活支援センターがあるのみで、公園付近にはそれなりに緑も多く、東京の真ん中と思えないほどの静けさだ。何名か看護士が通ったり、何台か車が出てきたり、入ってきたりしている。そんな様子を見ていると、突然、野崎の声がした。
 「戸山、こっちだよ」
 後ろを振り向くと、通りに車が止まっており、その助手席の窓から野崎が声をかけてきている様子が分かった。呼び捨てだったため、瞬時に反応できなかった。どうやらUターンしたようだ。車種は斉藤自動車のプルウス。色はシルバーだ。
 「とりあえず後ろに、乗って乗って。この辺は人通りが無いし、自由に喋っても大丈夫だけど、とりあえず、家まで行こうか」
 家って、野崎の家か?突然の展開に戸惑っていたが、俺はそそくさと後部座席に乗り込んだ。正直、コイツがどんな家に住んでいるのか、興味がある。でも、車がプルウスじゃそんなに良い家は期待できないように思う。運転しているのは、俺と同世代くらいの女性だった。
 「あ、こちらは、山下美弥子さん。私の周辺の雑用を引き受けてくれている」
 「どうも。戸山さんですよね?」
 山下と呼ばれた女性は一瞬こちらを向いてそう言った。
 「はい、戸山渉です。どうも」
 俺は、少し緊張感が走った。それは彼女が美人だったからだけではない。彼女が短く振り向くことで、こちらに注意を払った瞬間に漂った香りが、この一週間、疑義の対象であった山岡研M2の原田愛菜が近くを通るときに漂う香りと酷似していたからだ。おそらく彼女がつけている香水が原田のものと同じなのだろう。関係があるとは思えないし、この山下という女性は野崎の秘書だ。野崎が何も調べないわけがない。それにしても、こんなに若い女を秘書として雇っている野崎に、ほんの少し気持ち悪さを感じる。いや、だったら誰が適任なんだよ?と代案を考えてみると思いつかないけれど、なんとなく気持ち悪さを感じてしまったのだから仕方ない。
 「すぐに着くよ」
 車はどこに向かうのだろうか?車は来た道を戻る方向で、早田大のキャンパスの1つがまた見えてきた。
 「野崎先生、どうして、遠回りするところを待ち合わせ場所に選んだんですか?」
 山下美弥子が訊いた。
 「あそこが戸山で、彼が戸山くんだからだよ」
 一瞬、緊張感がほぐれる。だから、呼び捨てで俺のことを大声で呼んだのか?誰かが聴いていた場合、名前と地名を混同するように。いや、いくらなんでも、冗談だろ?そんなことを思いながら、しばらくぼんやりと景色を眺めながら、この一週間の孤独との戦いを噛み締めた。長かった。本当にこれしか術がなかったのか?なんやったら、この一週間のどこかで普通に山岡研に行っても良かったのかもしれない。いや、それはないか。だって、少なくとも、教授室の内カギを閉めたまま外カギを部屋の中に置いてきてしまった訳だし、このRC制度はそもそもの目的が研究をすることじゃないし、これで正解なはずだ。
 「戸山くん、今日はメシでも食べていきなよ。きっと大したもの食べられなかっただろ?」
 突然の野崎のフランクな提案にビックリする。
 「いや、それよりも・・・」
 「仕事の話は着いてからしよう。ほら、もう、飯田橋が見えてきた」
 まだ明るい外を眺める。この時期は16時過ぎでも昼間のように太陽が煌めいている。そんな太陽に対抗するようにそびえ立つ、やたら大きな2つの建物が見えてきた。40階くらいはあるだろうか?大きく目立つ双子ビル。
 「あれは桜ダブルタワー。手前が北棟で奥が南棟。あっちが東都科学大。で、あっちが政法大学だね」
 みるみるうちに桜タワーが目の前に見えてきた。外から見る限り、手前に見える北棟はショッピングモールのような施設になっているように思えた。土曜日のこの時間。やたらにカップルが多い。奥に見える南棟はマンションのように見える。で、あれが科学大か。JTSシンポジウムはあそこで行われたんだったな。あの時はまだこの仕事の危険度をきちんと認識できていなかったように思える。村松教授を追いつめたとき、少なくない優越感があった。権威に歯向かえるこの仕事を楽しめていたのだ。研究コントローラーと名乗る犯人から手紙がきて以降も、野崎の心持ちはあの時と変わらないのだろうか?
 「そんなわけで、そろそろ南棟に到着する。戸山くんは私たちの後ろを付いて来てくれれば良い。余計なことはしないこと」
 この桜タワーが野崎の家なのか?え?マジで?!この、億ションであろう桜タワーに住んでいる?俺は驚愕した。確かに野崎の能力は測り知れないし、一般的な知名度もそれなりにあるし、俺にぱっと1000万円を渡せるくらいには高額な資金のやり取りに慣れていることは知っていた。だが、それでも、ここまでの家に住んでいることを目の当たりにすると話は別だ。恵比寿にもこんな感じの億ションばかりが建っている場所があるが、ここは東京の中心と言っても過言ではない飯田橋。こんなところの億ションに、大学にいる教授の誰も住んでいないだろう。野崎は博士号を取っていないにも拘らず研究関連でメシを食っている、いわば失敗者だ。それでも億ションに住めるのか。いやむしろ、こういう生き方をしない限りは、理系はこういう場所に住めないのかもしれない。車は南棟の駐車場に入っていった。まだきちんと駐車していないが、ドアマンが手で合図をして車が停車した。
 「到着した。さぁ、車を降りてくれ」
 「おかえりなさいませ、野崎様」
 背広を着たドアマンの男性が、車から降りた野崎に話しかけた。手には白い手袋をしている。
 「あぁ、ありがとうございます。後は任せます」
 野崎がそう言うと、山下さんが車のキーをドアマンに預け、小さく「宜しくお願いします」と言った。ドアマンの男性は俺たちが乗ってきたプルウスに乗り込み、駐車スペースへと車を移動させていった。まるで高級ホテルの対応だ。
 「このマンションにプルウスで入るのはちょっと場違いな気もするんだが、仕方ない。あまり目立つ車に乗るわけにもいかないし」
 俺は野崎をこれまでとは変わった視点から見ている気がした。なんというか、金や散財という視点も、こいつにはあるのだなぁと思いながら、彼を見上げたのだ。

 駐車場からロビーに着くと、そこは高級ホテルそのものだった。フロントは2階まで吹き抜けになっており、大きなシャンデリアがあって、フロントマンもいる。明らかに座ると気持ちの良さそうな高級ソファを見てしまうと、この一週間ずっと安ホテルと漫画喫茶を行き来し、座ってきたおそらく安いであろうソファ達に何かの申し訳なさを感じた。ここに住めば、家にいながら、都会の真ん中でのんびりとした休日を過ごしたい、という想いが叶えられるだろう。エレベーターが6台もあり、そこに警備の人が立っている。目隠しされてここに連れてこられ、ここは何の施設だと思う?と問われたら、100%ホテルだと答えるだろう。野崎がエレベーターへ向かい、山下さんが少し後ろを付いていく。俺がさらに後ろを付いて歩く。こんなところにこんな格好でいても良いものだろうか?しかし、野崎に連れられてきているのだから仕方ない。エレベーターの前に立つ警備員が野崎に話しかけてきた。
 「野崎様ですね?」
 「はい。隣へ」
 野崎はそっぽ向いて答えた。
 「かしこまりました」
 エレベーターに乗り込むと、警備員も乗ってきた。警備員はカギを取り出し、カギ穴に入れて回すと、小さなボタンのようなものを出した。すると、野崎は指をそこに置き、リズミカルにタップした。指紋認証だ。まぁ、そんなものは、今の時代、スマホにもついている機能か。
 「では、お気をつけて」
 そういうと、警備員は会釈して、エレベーターから下りた。
 「これから北棟に向かう。いったん地下3階に降りねばならないのが厄介だが、安全のためだ」
 地下3階に着くと、さっきほどまでの豪華さと一転して簡素なフロアーが現れた。廊下をまっすぐ進む。またエレベーターがあり、それに乗り込むようだ。今度は警備員はいないし、一台しかない。
 「私の部屋は35階だ。山下さんはもう部屋に帰るだろ?」
 野崎がそう言うと、山下さんは頷いた。すると、33階のボタンも押して、言葉を続けた。
 「じゃあ、戸山くんは私の部屋に」
 「ここ本当にすごいですね」
 すると、野崎は笑顔で返してきた。
 「3年前に警察病院を取り壊して、この桜ダブルタワーを作ったんだ。表向きは四井不動産が土地を買い取り、南棟の高級マンションと北棟のオフィスビルのセットというカタチになったんだが、本当の目的は私のように警察に協力している人間の安全な居住を提供すること。特にこっちの北棟に居住スペースがあることは普通知られていない。戸山くんも秘密にしておくように」
 「っていうことは、野崎先生は、ここをタダで使ってるんですか?」
 俺は思ったことをそのまま言った。
 「その通り。今通ってきた南棟には実際に多くの金持ちが住んでいる。まぁ、とは言っても意外と安くて、1LDKの部屋で月々30万円ほどだ。図書館やジムが使いたい放題だし、お手頃価格だろ?」
 どこが安いんだ?俺の心の中のツッコミを置きざりにして、野崎は山下さんのほうを見ながら言葉を続けた。
 「私はこちらに移ってきて、まだ1年。山下さんは2ヶ月だね。慣れた?」
 「いえ、似合わない着物をいつまでも着させられている気分です」
 俺は笑った。野崎も笑っている。そらそうだ。っていうか、この子は何者なんだ?

 山下さんとは33階で別れた。2人で野崎の部屋の前に到着すると、カードキーをドアのところに入れて、さらに暗証番号および指紋認証の後、ようやく入室した。中はものすごく広い。一人でこんなところに住んでいて、寂しくならないのか?というような広さだ。
 「さて、ここでも、まだ、話す気にはなれないかな?まぁ、戸山くんの持ち物のどこかに発信器がついていたとしても、一週間以上経っているから電池が持たないはずだし、ワイヤレス充電はまだまだ研究段階で商品化されていないし、仮に使われていたとしても東京はフリーWi-Fiゾーンが少ないからね。確実に大丈夫だと思うけど、完全に電子ネットワークから抜け出す部屋にでも行こうか?」
 そういうと、入り口から2番目に近い部屋に入った。扉を開けると、そこには、何も無い空間が広がっていた。家具1つ置いていない。まるで、引っ越してきたばかりで、これから家具を置きましょうといったような印象だ。
 「この部屋はドアを閉めれば電磁遮蔽が完璧になされている。何を話したとしても外部に漏れる心配は一切無い。高度な技術が発明されればされるほど、こういう落ち着いた部屋を人間は欲するようになる。考え事をするとき、私はこの部屋をよく使う」
 電磁遮蔽が完璧になされている部屋。アルミホイルでも全体に巻いているのだろうか?わからないが、そんな場合ではない。話さなくては。水酸化ナトリウムのことも、パラレル回線が原田愛菜によってバレていることも。しかし、野崎が先に話をしてきた。
 「さて、戸山くんに話してもらう前に、私が戸山くんについて掴んでいることを先にお伝えしよう。パラレル回線がヤツらにバレている。そう思っているんだろ?」
 「その通りです」
 「その根拠は?」
 「秘書の友川さんのパソコンのパスワードを知るためにスマホをしかけたとき、実は僕、試薬リストを軽く見ておいたんです」
 野崎は目を見開いた。俺は言葉を続けた。
 「偶然、試薬リストが開いていて、ほんのちょっとだけ見ました。そのときは、水酸化ナトリウムという記述が確かになかったんですが、得られたパスワードを打ち込んで深夜に潜入したときには、水酸化ナトリウムの文字があったんです、2015年の9月24日に」
 そう言いながら、私用のスマホに撮った写真を野崎に見せた。
 「そんなの、最初に戸山くんが見たときに、見間違えたのかもしれないだろ?」
 「その可能性は考えたんですが、9月24日は見間違えないと思うんです」
 「その日って、何かあるっけ?」
 「ええっと、僕にとっては、修士論文でのチャンピオンデータが出た日が2015年の9月24日なので。最初に見たときにも、そう思ったことは覚えていたし」
 野崎は俯いたままだ。俺は言葉を続ける。
 「それに、M2の原田さん。あの人あやしいですよ。午後イチ、っていうのを、僕がパラレルスマホで野崎先生に書いた直後に、同じようにそう言ってたし・・・、だって、午後イチって普通午後1時のことでしょ?でもあのとき、僕は午後2時の意味で使った。それを僕とまったく同じ意味で間違えたんですよ?それを他の人に追及されたときに、嘘をつく時の仕草をしていたし」
 「嘘をつく時の仕草?」
 「彼女、嘘をつくとき、髪を後ろに流して、片側だけ前に戻す癖があるように思うんです」
 野崎は考え込みながら、突然こちらに表情を写し、微笑みながら応えた。
 「なるほどな。戸山くん。実はね、高野先生から訊いたんだが、原田愛菜はこの一週間、君と同じく山岡研究室に来ていないんだよ」
 「え?」
 俺は悪寒がした。どういうことだ?こちらの行動に気がついて、どこかへ消えてしまったのか?それとも??
 「それも無断でね。何の連絡もないそうだ。だからその憶測は合っていると思う。他に何か無かったかい?」
 「いや、めちゃくちゃ、あったんですよ。あの潜入してた深夜、教授室に入ろうとしてきたヤツがいて」
 「なんだって?どういうことだ?」
 野崎は微笑を消し、驚いた表情をした。
 「部屋に侵入したときに内カギをかけていたから、窓から逃げてなんとかなったんですけど、マジでやばかったですよ」
 「その話は実におかしい。なるほど、戸山くんはかなり優秀なRC研究生のようだな。いや、実は、私はパラレル回線がハッキングされているんじゃないかと薄々感じていた」
 え?そうなのか?じゃあなんで手を打たなかったんだ?俺は野崎の言葉を待った。
 「だから、あえて絶対にありえない犯行の手口を推理し、調査してみることで、必ず何かしらが見えてくると思ったんだ。だって、あの手紙が来た時点で、こちらの手がバレていそうなことは検討がつくだろ?水酸化ナトリウムの予測はフェイクだよ」
 それは冗談キツいっすよ、野崎先生。こっちとら、命狙われてるんですから。ってだから、給料が高いのだった。仕方ないっちゃ仕方ない。
 「犯人達は戸山くんと私のパラレル回線での会話を、少なくとも一部見ていたはずだ。だから、あの日、私は君に様々な指示を分単位で与えた。ヤツらが何かを仕掛けていた場合、あたふたするように。しかし、ヤツらが、それでも何かを行動できるのだとしたら行動してくるはずだし、私には何も行動しないだろうという予見があった。なぜなら、そこで何か私たちに危害を加えるつもりなら、もっと前に私を含め、何らかの攻撃をしかけてきても良いはずだからだ。そして、今の戸山くんの話から、ヤツらは、わざわざ試薬リストを書き換えてまで、水酸化ナトリウムで遺体を溶かして捨てた、と我々に死路に導くように仕向けたってことは、まだ我々を泳がせたかったということ。それなのに、そのタイミングで、戸山くんだけを襲ってくるのは、不可解だ。何のメリットもない」
 言われてみればそうだ。こちらの情報が筒抜けだったとして、あのタイミングで教授室の扉をがちゃがちゃと回して、俺を連れ去ろうとしたり、殺そうとするのは、不可解だ。それが目的なら、さっさと殺しているはずだし、そうでないなら、もっともっと泳がせるはずだ。
 「私は戸山くんに何かあっただろうと思って、講演を引き受け、そのことをSNSで公表した。だから、実は、さっきのあのタイミングが危うかったのかもしれない。だが、我々はこうしてなんとか無事に帰還している。考えられるのは次の2つ。研究コントローラーたちが仲間割れを起こしているケース。たとえば、ヤツらのうちの一人が戸山くんと私のパラレル回線にハッキングすることに成功していて、その情報が仲間全体に及んでおらず、単独で行動してきた結果が、仲間内に突然伝わったことで、指揮系統に混乱を生じさせた可能性だ。もう1つは、彼らが断片的にしかパラレル回線の会話を把握できていないケース。まぁ、可能性が高いのは後者だろうな」
 俺が一週間考えていたことをあっという間に把握してしまう。
 「心配は要らない。最新の量子暗号をベースとした暗号化ソフトを組み込んだパラレルスマホが来月には届く。これが解読されることはまずないし、戸山くんにはその間、この桜タワーにいてもらう。他のRC研究生には私がなんとか伝えよう。まぁ、位置情報が読まれているとしたら、自宅にいられたら危険で仕方ない。落ち着くまでここに住むしか無いだろうな。大丈夫、ここはものすごく警備システムが厳しいし、どこかで狙われたとして、たとえ爆破されるとしても、居住スペースである南棟が狙われるはずだから」
 コイツ、さらっとすごいことを発言したぞ。しかし、ここに住めるのか。こりゃいよいよ俺の金銭感覚が狂ってくるな。
 「そんなわけで、まぁ、ここから都王大の根津キャンパスはすぐだから、自転車で通っても良いけど・・・、またこういう時のために、これを覚えておいてよ。とりあえず、山岡研は放置でイイからさ」
 野崎は笑顔だ。放置でいい?本当にそうなのか?野崎はA4で印刷した紙をホチキスで挟んだ資料を渡してきた。
 「なんですか?これ?」
 「RC式モールス信号」
 モールス信号。スパイものでよく出てくる、あれか。
 「普通のモールス信号だとバレたら一発だ。だから、私が改良しておいた。覚えやすいしバレにくい。まぁ、それはすぐに覚えなくてもイイが・・・、それでっ、井川くんのことは、何か分かったかい?」
 野崎は突然、山岡研でD5で現在行方不明になっている井川くんの現状を訊いてきた。まぁ、そのために俺は潜入してるわけで、当然っちゃ当然か。
 「うーん、井川さんにとって、同期の豊杉さんがけっこうキツかったんじゃないですかね」
 「まぁ、それは私も感じていたことだが・・・」
 「井川さんが、研究者として大事なことは何か?って訊いたときに、豊杉さんは、自分で物事を考えられること、と答えたみたいですが、豊杉さんは本当は、有機合成の分野だったら、とにかく手を動かすことだって思っているみたいで、そんな豊杉さんが成功していく様子を、井川さんは見ていられなかったんじゃないでしょうか?」
 「”そんな豊杉さん”とは、どういうこと?」
 「なんというか、上の人にとって使いやすい若手でいることが研究者として最も大事って思っているあたりです。その考え方だと自分が上の立場に立ったときに完全に困るんじゃないかなぁと。だって、一生誰かに媚び諂って生きていくことはできないじゃないですか?」
 「それはそうだけども・・・、じゃあ、戸山くんは、研究者として最も大事なことは何だと思うの?」
 野崎のこの質問は何を意味するのだろうか?調査が大事なんじゃないのか?
 「難しいですが、僕は、研究者として大事なことは、研究者として大事なこととは何か?という問いを常に自らに問い続けることそのものだと思うのですが」
 すると、野崎は、指を鳴らしながら、「ダウト!」と言ってきた。
 「それはウソだし、卑怯だよ」
 突然の誹謗中傷発言にビックリして、反射的に言葉が出た。
 「なんでですか?」
 「研究者なんだろ?間違ってもイイからまずは答えを出せよ。問い続ければイイ?答えも出さないくせに、なんだ?その舐め腐った態度は。それじゃあトートロジーじゃないか。確かに、多くの研究者が、その問いに対して、論文が書けること、と実務的に答えたり、好奇心を持つこと、と退屈な一般論を述べたりする。だが、彼らが戸山くんと違って偉いのは、周囲から叩かれる可能性を享受しているという点だ。戸山くんは、権威主義を否定しながら、答えを出さなければ叩かれることはない、という自らの怠惰な思考停止を、考えていそうな言葉に収束させている点で、より自己欺瞞的だし、卑怯だし、なにより、コインをひっくり返せば、戸山くんが嫌っている権威主義的な考えそのものだ。トートロジーも甚だしい」
 「そこまで言うこと無いじゃないか!」
 またもや反射的に言葉が出てしまったせいで、敬語を忘れてしまった。
 「ダメだよ、戸山くん。理系はどんなことがあっても怒りを露にしちゃいけないんだ。クールでなくてはならない。感情的になった時点で君の負けだよ」
 その通りではある。俺は自分を抑えながら、反論を探した。
 「じゃあ、野崎先生は、何が研究者として大事だと思っているんですか?!」
 「知らない。わからない。私は博士号を持っていないし、博士課程の学生でもないし、これから目指す気もない。研究者ではないからね。だが、戸山くんの帰結が最悪なのはわかる」
 なんて勝手な奴なんだ。一刻も早くここから出ていきたい。そう思ったが、野崎は予想外の言葉を使ってきた。
 「まぁ、確かに。少々言い過ぎた。悪かった。つい、昔を思い出してしまって。でも、何かしらの答えを出すということは、とても大事なんだ。だから、私も、何かしらの答えをこの瞬間に言わなくてはならないだろう。研究者として最も大事なこと、それは、とにもかくにも生きていること、だと私は思う。この”生きている”という意味は、ただ生命的に生きていれば良いということではなく、どのような状態であっても、まずはその場にいて、悠然と生きている、という意味だ。だから、私は、研究室がいくら劣悪な状況でも、井川くんのように研究室に来なくなってしまう人を完全には肯定できない。確かに、へーこらしているほうが上手くいく、そういう世の中かもしれない。でも、そこに真っ先に甘んじているのは井川くん本人だとは思わないか?だって、その場に存在しようとしなくなってしまうのだから。世の中は所詮まだまだ権威的なのか、だったらいいやー、と研究室に来なくなってしまい、延いては社会から自分を隔絶してしまうのは、誰でもいつでもできる手段だが、現状を何も変えようとしていない点で最悪だ。まぁ、可哀想ではあるけどね」
 今までで初めて野崎が詫びた。俺は怒りよりも、あっけにとられてしまった。
 「さて、疲れただろう?とりあえず夕飯にしよう」
 そう言うと、野崎は、部屋を出た。

 その頃、桜タワー北棟33階にいる山下美弥子は、テレビを見ながらSMSで会話をしていた。
 「あ、そういえば、こないだ教えてくれたロアレルの流さないトリートメントの新商品、使ってみたんだけど、すごく香りがイイね」
 「でしょでしょー。美弥子も使ってみた?前にね、何かのサイトのコスメランキングで香りがいい部門で上位だったよ」
 「まぁ、その香りを世の男どもに振りまく瞬間は、まだ訪れてないんだけどね。泣」
 「貴女、まだ、野崎って研究コンサルタントの先生のところにいるの?」
 「そうよ。そのほうが安全だし」
 「で、私にも、まだ、どこにいるかは教えてくれないってわけ?」
 「ごめんね、お姉ちゃん。野崎先生が絶対ダメだって。私だってつらいのよ」
 「それはそうかもしれないけどさぁ。まぁ、男運がないわよね、美弥子は」
 「そういうことじゃなくて、お姉ちゃんに会えなくて、ってこと」
 「だったら、どこにいるかくらい教えてくれればいいのに。まぁいいけどさ」
 「お姉ちゃんのほうこそ、異動なんだよね?」
 「そうよ、今度は関西方面」

******************************************************

8. 放任と管理/『研究コントローラー』につづく

 『ここのところのこの話、事実やで』
 「え?たかはしさんがもって書いてるんじゃないんですか?」
 『いや、マジでこのまんまやで。色々あるんやで、研究室は』

 さぁ、どこがフィクションでどこが事実か、考えながら読み直してみましょーね、全部(笑)
 事前に読んで添削してくれた方、有り難う御座いました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この悲しみも過ぎてくのかな | トップ | HUNTER×HUNTER考察音声カミン... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ネット小説『研究コントローラー』」カテゴリの最新記事