たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

生殺与奪の贈与

2015-05-07 02:50:12 | Weblog
 多数性を至上のものと決めつけ、カワラナイを維持しようとしていたら、ダイナミクスは起きなくなってしまう。
 この事実を研究している研究者でさえ、集団の価値観を根底に物事を考え、自らの周囲の状況を無難にしようと努めてしまう。せめて、そんな研究テーマやめればいいのに(笑)。

 「みんなが厭な気持ちになる」ということを前提に、種々の行動を規制していくならば、自分が集団に対して常に殺され続けることを肯定せざるをえない。
 確かに社会に対して何かのアピールをすることそのものは集団として行った方が手っ取り早いし確実だ。だから、その集団を維持するための力が必要以上に入ってしまうことは仕方ないとも言えるのだが、この点を唯一無二の重要なこととして語る者ほど、実力が無く、他人任せであり、集団の利益を1人でとっていってしまうような態度をとることが殆どである。そして、実力のない者がトップに立った時、より大きな集団に対して非常に脆弱であり、結局のところ、集団そのものの崩壊に繋がるであろう。

 変化と大衆の価値観を必要以上に恐れず、自分の理想的な気持ちに最も素直になった時に、はじめて、イノベーションは起こる。イノベーションを起こさなくても良いと考えるのであれば、少なくとも、今すぐに、研究の世界からは立ち去るべきだ(しかし、何処へ行っても、イノベーションを起こさなくて良い人間などいない、と俺は想う)。
 研究は、決して、繰り返しの作業ではなく、「書ける」ことを強調し業績を主張する行為ではなく、人類にとって新しいことを行い続けるという覚悟を持ってして臨む、思考or試行錯誤的な取り組みを言うのだから。ちなみに、研究の中身はそうあるべきだが、日常生活はもっと現実的にならざるをえない、などというイイワケは論理的矛盾を孕んでいる。

 俺が何かの退廃的な環境に異議を唱えた時、その異議そのものが「変化」として捉えられ、その「変化」を起こしている俺自身に対して、「無難に、穏便に」「長いものには巻かれよ」などと声をかけ、退廃的なことを肯定化してまで「変化」を嫌うことの気持ちが圧倒的であるならば、俺自身の感情に対して正直になるしかない。
 かつて俺は、こうなったとき、常に出ていかなければならなかった。なぜか最近は違う。それだけで、俺は、「変化」を起こし続けることができる。

 今回の仕事は、あなたの言う通り、俺はもはや当事者ではない。俺はただ、能力として、生殺与奪の権利を掌握しているだけだ。思い返してみれば、この仕事を達成するために、俺個人として数々の能力をつけてしまった。

 ならば、活かすも殺すも、当事者次第にすれば良いだけのことだ。

 シャンスサンプル。
 俺にとって、活かしてくれればこのホンモノを手にできる可能性が存続し、殺されても能力が残る。どちらにしても、俺の勝ちゲー。
 あなたにとって、活かすなら(少なくとも)あなたの望むくだらない言葉が手に入る可能性が高まり、殺しても現状維持。どちらにしても、あなたの勝ちゲー。

 能力を向上し続ける覚悟を持っている限り、少なくとも負けない。権威があるからといって驕っていれば簡単に負けてしまう。
 シンプル。
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