たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

研究の心得

2015-02-01 04:06:15 | 自然科学の研究
 自分の一言一言が、自分の評価に繋がっていることを決して忘れてはいけない。
 くだらないゼミのくだらないオフェンス一つとってみても、どんなにクズだと思ってしまってるヤツと喋るんでも、明らかに自分のほうが優位に立てると思って発する言葉も、発言の仕方には細心の注意を払った方が良い。

 これは、だから無口でいることが一番良い、と言ってるわけではない。無口でいれば、こういう場でこういう時には話さないんだ、という評価になるし、それが良いことであることもあるし、悪いことになることもある、というだけだ。
 人生はいつだってオーディション。言葉が未来を創っていく。

 言葉といえば、昨日までアクセス解析が見れる期間だったんだけど、みんな、このブログにネガティブな言葉で入ってきすぎ(笑)。まぁ、それは俺がネガティブな言葉を使っているせいかもしれない、と思って少し反省したりもしていた。
 「研究 やめたい」とかで入ってくるのが多くて、研究室の選び方のほうで入ってくる人も、「研究室 コアタイム」とか「生物系 ラク」とかで入ってきます。なんと夢も希望も無い世の中なのでしょう。

 研究をしている人たち、それを志す人たちが、あまりに元気が無いのは良くないですね。みんな忘れているのは、理系で研究している人というのは、ノーベル賞取れる可能性があるってことです。
 いいですか、一般の他の人、ってのは、いっさいノーベル賞取る可能性は無いんです。0%です。みんながマララじゃないんですから。でも、研究してる人、論文が読める状況にある人ってのは、超可能性は低いけど、ノーベル賞をとるかもしれない。だから、暗い顔して、意地悪な顔して、眉間にしわを寄せて難しい顔をしてないで、もっともっと楽しく、みんなで楽しく、そしてそれが続くように、研究を進捗させなくちゃ。
 無理に誰かにアジャストしなくて良いし、学生のくせに学問そっちのけで政治力学を重視する必要もないし、誰かを蹴落としてまで何かを得る必要はありません。どのような立場でも、どのような惨めな状況でも、素晴らしい研究になりえるのですから。

 こういうことを言うと、生活がー、とか、この研究社会で生き残るためにはー、とかみんな言ってきますが、だったら、今からでもふつーに就職すりゃーいいじゃねーか。生き続けることの醜さを、胸を張って、したり顔で語るな、うっとーしい。研究は、俺の認識では、賭け、ギャンブルです。ギャンブルをする前に、負けても大丈夫なだけの資格や能力を得ていない、お前が悪い。
 もちろん、世に言う研究遂行能力とは、思考力や論理性や行動力に依存はしますが、それはギャンブルだって同じこと。研究はそもそもが高尚なことじゃありません。その程度なんです。その賭けをし続けられる限り、あなたは大成功する確率がある、そのリスクはとても大きいけれど、ってことを忘れないで、と、あらゆる非人道的な行為に近いシーンで感じます。

 「賭け」程度のことをし続けるために、人を(精神的にor肉体的に)殺すようなことをしたり、誰かを蔑んだり、バカにしまくったり、罵倒したり、理不尽にしたり、誰かに媚びへつらったり、追いやったり、見せしめにしたり、そんなくだらない、自分勝手なことをしているのは、非常にバカバカしい。そんなことをするくらいなら、賭けから降りればいいのに。

 生き続けるために、という気持ちが全面に表現されてしまえば、いじめになってしまうことは明らかだ。それは幻想でもなければ妄想でもなく、ただの原理であり、世界でも典型的に観られる至極ありきたりな現象。そうやって、人は人を殺す、という構造をきちんと理解していなけりゃいけない。賭けをする以上はね。

 俺の最も尊敬する理論研究者の一人の最後の言葉が響く。
 「我々は、物理や、サイエンスをやる前に、所詮一人の人間だということを絶対に忘れてはいけない。そうでなければ、いつかは崩れ去る」

 やはり、言葉、ということに、細心の注意を払わねばならないよね。

 賭けに勝つヤツがいれば、その数十倍以上、賭けに負けるヤツもいる。ただし、不当に賭けさせないような手段を講じて、他人を故意に蹴落として這い上がり、正当な勝負をせずに、「研究の世界は厳しいのだから」などという言葉を使うなら、それはただの傲慢だ。

 その傲慢さこそが、研究は高尚なものである、という勘違いである。
 自然科学は、自然現象と人との勝負であり、確かにそれは厳しい。人と人とが争う意味で厳しいわけじゃないのだと俺は思っている。

 …と、今日の記事(の言葉)は、大丈夫かな?笑