たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

信念のある人は存在できない

2014-09-30 00:20:08 | Weblog
 結局のところ、信念のない無難さを発揮すれば、原理的に誰かを傷つけてしまう。

 たとえば、俺があるラーメン屋で豆乳つけ麺がめちゃくちゃ好きで、そのラーメン屋に行くたんびに、信念を持って豆乳つけ麺を頼んでいたとする。
 そこに、何を食べても腹が満たされればそれで構わないみたいなヤツがやって来たとして、何の悪気も無く、何の自分の想いも込めず、無難だからというただそれだけの理由でただのラーメンを選ぶのは、非常に迷惑なわけだ。いや、だって、そこでどれが美味しそうか、コスパーが良さそうか、とかで選んでるのならまだ分かるけど、みんながみんな、無難ってだけでラーメン選ばれたら、いつしか豆乳つけ麺みたいなレアメニューが消えちゃいそうじゃん。笑

 こういう不条理を、多数決至上主義者はぜんぜんわかってない。人数が多いことが、獲得票数が多いことが、一番の正義だと考え、何も考えずに、それさえ選べば悪いとは言われないだろう、っという考えのヤツは、無駄に平均値が強固になることの暴力性をまったく考慮していないことが殆どだ。
 多数決というのは、みんながみんな、同程度きちんと考えて、せーのっ、でだして、始めて平等になるものだ。それを、どーせ俺の意見なんて、という蚊帳の外ヤローが自分の存在を成り立たせるためだけに、無難に平均値をとることは、真剣にそれらから何かを選び出している人達への暴力に他ならない。

 というよりも、多数派でいれば誰にも悪いとは言われないだろう、という考え方そのものが俺はムカつくので、、俺一人でも、それは悪い!ダメすぎる!クズすぎる!、と言っておくことで、彼らの計算を狂わすことになるので、俺にとってはコスパーが良かったりして。笑

 まぁマジな話、信念が無く、ガチの能力をつけようと努力してみたら実際には能力がつかなかったときのことを恐れ、本当の能力をいかにつけないで無難な道を選んでいくかの能力ばかり向上させようとしている人は、謙虚に「だから私は意見を言う資格はありません」ヅラしてないで、さっさとそこから出ていけ。と、たまには厳しいことを言ってみる。(たまか?笑)

 というよりも日本人の殆どが無難至上主義者なわけだから、むしろ出ていかなくちゃいけないのは、俺のほう。

 暗闇に一筋の光を持ちこめば、そこが闇だったことが分かって怖いのと同じで、そのような僅かな光で闇を照らす人とその瞬間を、たぶん俺は多く見過ぎてしまっているのだと思う。それは俺が観察力があるからでも、想像力が豊かだからでもなく、単純に、そういう運命なんだと想う。
 果たして、俺にイイ顔してて、裏で無視しているその態度を、俺がわかっていないとでも思っているのだろうか?俺の意見に反論を最後まで起こさずに、俺にイイ顔してその通りだという態度をとったまま、実際に発表するときには無難さだけを主軸にして様々なことをやり過ごそうとしていることを、この俺が気がついてないとでも思っているのかな?

 『っで、あなたはどこを志望するの?』
 「ーと、ここと、こういうとこです」
 『おお、みんなと違って、ちゃんと決まってて良いね。ただ、それなら、たくさん勉強しなくちゃだね』
 「そうですね笑」

 闇のなか、ひとりぽつんと座っているのが気になって、話しかけた。本人はそれで目立ってないとでも思っているんだろうか?こちらから見ると、めちゃくちゃ目立つ。そんな彼女に、わざわざ、みんなと違って、と言葉を選ぶ俺は、意外とSなのかも。
 生まれてからの環境と履歴からすると、それが彼女にとっての無難だったのだ、とわかったのはその数日後だが、、それを俺程度の信頼関係でもこうやって打ち明けてしまうくらいの無邪気さが、あの人にあと少しでもあったら、と思うのはその数年後だ。

 どんな人でも、無難なことを誰も傷つけずに選びたいし、それで誰かを助けたい。信念のある人?そんな人、本当にいるんだろうか?
 いたとして、それがイイのだろうか??誰への想いも存在せず、ただただ何かの信念を持つというのは、むしろ信念のない無難なのではないだろうか?

 でも、ほんの少しだけ人よりも能力があるなら、その丘陵からみえる景色として、多くの人が無意識に他人を傷つけたくはないはずなのに、そうなってしまっている現状に気がつくだろう。

 誰でも純粋な想いがたった数人に解けていくとしたら、これからも、俺のそのたった数人は、優しくて損をしてるバカであって欲しいと願う。お互いに、そっちのほうが、本当に貢献していけるから。
 たったそれだけの違いであったら、本当に、本当に良いのにね。
コメント
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