たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

色のついた世界に戻そう

2009-12-29 02:37:39 | Weblog
 誰かがなんかムカついたとする。知らず知らずに、また他の誰かに当たり散らす。これをn回繰り返したときに、想いの容量が大きい人で止まる確率は非常に高い。
 どんどんどんどん、ある人の想いの容量があふれ出し、それが、ある人の想いの容量へ。まるで、Harmonic trappedしたHubbard内で、SpinのImbalanced性を与えたFermi粒子達のように、平衡状態を探して、どんどん、さまよう。

 「わかるけど、容量が無い中で、空けようとしなきゃなんだから、、まぁ。」
 『違う。別に容量が無かったわけじゃない。使いたくなかっただけだから、自分にムカつくんだよー。』

 自分の成功を確実にするために、想いを自発的に溢れださせるのだって、立派な想いの容量の定義じゃん。そう気がついたとき、リスキーなのは承知で、限りある胸に抱く想いの容量が溢れて行きそうになっていくのを止められる触媒を探す。

 想いが溢れないようにするための触媒に音楽があったりする。生活上のたいていのイヤなことは、もう誰かが経験したことのある不幸なわけで、俺が感じる程度のイヤなことは、だいたい歌になっている。
 それでもダメなときは、相手に一枚、カードを提出する。あまりにも長い年月、握りしめてしまうせいか、ボロボロでしわくちゃな切り札であるが、いつも、予想以上に慧敏だ。

 例えば、そんなとき、ふふんって、容量が広がるのが、意識的に、わかる。その反応をしすぎた系について、ついには、触媒なしで、その広さを保つことになる。

 最近、やっと、わかった…。こういう風に、想いの容量が有限から無限へとシフトしていくのか。そりゃ、2人とも、感情も失うわけだ。
 でも知ってた?「究極的な思考」と「感情」は、原理的に、区別できないんだよっ。だから、感情を失いつつも、彼らは、極上の「思考と感情」をミクロに沢山持ちあわせる。

 俺も、きっと、そんな風になりかけてしまっている。

 だとしたら、もう、心を空(カラ)にはしない。させない。俺らで止める、絶対に。
コメント (4)
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