たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

世間なんかに負けるな!

2009-11-30 03:26:15 | Weblog
 昨日まで考えていた計算方法や定性的理解が、朝、目覚めた瞬間に解決することがある。それは、俺の先生や先輩達も、同様の経験があるようで(プログラム計算は別らしい…)、理系の皆さんなら、誰でも経験があると思う。理系じゃない方でも、夜、何か悩んでたことが、朝起きたら、なんでもないじゃん、って思えちゃったりしたことがあると思うんですが、いかがでしょうか?

 一般に、朝と夜では、思考や感情の働きが違うらしい。確かに、なんとなく、わかる気がする。それぞれに良い点と悪い点があると思うけど、ちょっと挙げてみよう。

 朝…現実的、多角的、感情よりも思考が優先
 
 夜…夢見的、集中しやすい、思考より感情が優先

 つまり、集中して周りの事象を考えず計算しまくったり理解しまくったりしていて、ふっと、朝になって多角的になれた瞬間に、解決していたんじゃないかと解析できますよね。
 確かに、転学しようと思ったのは夜だったし、あれは現実的に無理だからもうやめよぅと思ったりしたのは朝だった。その他にもたくさんある。もっとグウタラな例を挙げるなら、どんなに夜、「寝るより楽はなかりけり、浮世の馬鹿は起きて働く」と思っても、朝になれば、そのバカになっているってわけ。
 別に、訓練によって、いくらでも、変えられると思います。事実、受験生は、いつでも集中できて多角的にならないと困るでしょうし。だけど、性質として、どうしても、こうなりがちなんだよね。

 だから、大切な決定をするとき、たいてい俺は、日をおく。朝、昼、晩と、そのことを考えてみて、どっちか?って訊いてみる。この想いは夢見的になりすぎていないか?、多角的視点で考えてみたらどうか?っと、いろいろ試してみる。
 それが相手に一歩先手をとられる原因になるかもなこともわかるけど、そんな時間依存性によって掴めなくなってしまうようなモノなら、大したもんじゃないって考えることもできるんだぜ?!

 そんな現実的な朝だからこそ、特異的な感情の性質があったりする。
 朝の占いなんか見なくたって、外に出た瞬間、その空気の温もりや匂いで、今日のツキがわかる。良い時や変化が起こりそうな時は「今日は、いつもよりは、まともそうだ」って、悪い予感の時は「今日はなんかありそうだな」って、感じることができる。そして、そういうときの行動はよく覚えているもんだ。
 それがジンクスにつながる。
 「そーいえば、あの時、いつも踏まない、駅前の茶色いタイルを踏んだな。だからか…。今後、あのタイルは踏まないようにしよう。」そう思った小学6年生のとき以来、俺は一度も駅前の茶色いタイルを踏んでいない。

 どちらかというと、朝のが、落ち込みやすいよね。

 感情に流されず、だからって、思考によって感情を制御し過ぎず、対等にならないと、正解は導きだせない。
 正解ってさ、何をもって正解とするかって話も難しい。自分にとっては「これで良かったんだ。あのとき感情に流されていて良かったじゃないか。」とか「これで良かったんだ。あのとき思考を優先させなかったらボロボロじゃないか。」とか、いろいろ考えようで変えられるから良いけど、周りはそれじゃぁ迷惑なのです。
 周り、それは俺とかじゃなくって、むしろ、見えない誰か、この世にまだ存在してもいない誰かにとって、なのかもしれない。
 それで、その周りにとっての迷惑は、結果的に、自分にとっても正解とはならない。

 だから、定常状態の方程式や、思考も感情も超えた何かを、信じていたい。朝でも夜でも思考でも感情でも、いつでもそれが正解だし、それを超えた判断基準でも、そいつが正解。そんな解の存在だけは、信じていたい。
 その中で、はじめは妥協するとこだって、あるとは思うけどさ。
 だって、間違いなく、最初っから、一番大好きなテーマを研究していることなんて、ないんだからさ。
 
 でも…。

 そんな魔法みたいな光を信じている心は、いつまでも、いつまでも、続いていく。
 「まっすぐ」なのが、俺の唯一の長所だと思うから、たぶん、そこを捨てることはないのだろう。

 そして、そういう人種が少しだけど残っていることも、また、知っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする