「文章で10行書くよりも、ひとつ図示してみることが重要である」
というのは、自然科学の中でよく言われることである。人が何かを認識するとき言語だけで頭の中で構築するのは難しいことが多い。例えば、読者の中で何人が、小説など(挿絵の少ない本)を読んでいて、登場人物などの相関を図示してみたことがあるだろうか?みんな日本語がわかっていると言うのは大いなる勘違いで、「わかった」と仮定して先を読み進めているだけ、ということも多々あるのだ。
1つの数式から物理現象をイメージすることは、慣れてしまえばそんなに難しいことではない。しかし、2つの互いに依存しあった式を同時に頭の中だけでイメージすることは一気に難しくなり(俺程度の思考力レベルでは多くの場合、不可能)、3つ以上の式になればどんなに簡単で平衡状態で時間に依存しなかったとしても数値計算でself-consistentに解いてパソコンに図示させてみなければ、そのイメージすらわからない場合が殆どだ。
人間が言語化によって得られる情報は意外と少なく、「図示する」という行為によって視覚化することで、思わぬ自然法則が明らかになることは多い。
それほどに「図示する」という行為は自然科学にとって重要なのだが、これは単純に「リアルな絵を描く」という行為とは違う。
「図示」というのは、抽象化を含み、不要な部分を排除するということである。よく「抽象化(abstraction)」というと「曖昧にすること」と読み替えている人がいるが、必要な骨格だけを「抽」出するというのが本来の意味である。芸術に詳しくはないが、具象絵画が現実に忠実に書こうとするのに対して、抽象絵画というのは具象から骨格や本質を「抽」出してきた際のモデルを描くという理解を(俺は)していて、(おそらく)共通だと思う。
つまり、俺は、(あくまで)サイエンスにおいて(は)、何らかの理論的予測や価値観や興味対象を持って「図示する」行為には意味があるが、ただ単純に具象を正確に記述することの意義はかなり低くなると考えている。
この違いを明確に持つと、今の時代に大学の学部教育の中でケント紙に細胞をスケッチさせる価値は殆ど無い、ということが明らかだと思う。
勘違いしないでほしいのは、一度くらいはきちんと細胞小器官別に(もしくは他の価値観で)抽象化して自分で図示することにはそれなりの価値があると思うし(顕微鏡で細胞を観ながら描くと良い)、顕微鏡画像をデジタルに処理してイメージングすることにももちろん価値があるが、学部生全員に具象として「ケント紙に細胞を輪郭線以外は点描させる」という行為は旧世代の先生方の自己満足である(つまり、わざわざ習うことではない)。それこそ、今の時代、Z-Stackがキレイにとれるので、三次元に図示させてみるような課題を作ってもいいかもしれない(PC上でも、実際でも、どっちでも良い)。どの種類の細胞かにも依るが、細胞は生命の最小単位である。非常に価値がある、、かもしれない。
だが、やはり、どんな崇高な価値観を持って、細胞を抽象化させて精緻にスケッチ・工作・イメージングしてみたとしても、細胞の機序が完全にわかっていないうちは、還元主義の枠からでないことは認めなければならないだろう。生物学が物理学からスタートしている公理系に接続していない以上、仕方ない(化学は20世紀でだいたい接続しているから、まぁまだ良かったよね)。
俺が大学で教職をとっていたとき、偏差値が低く授業中に席に座っていられないような高校の生物の授業モデルとして、「細胞を色塗りさせるのが効果的」という内容を扱った。資料集にある細胞を白黒にクラス全員分印刷して、「好きな色で塗りましょう」と言うと、不思議なくらい皆集中して席に座っていられるとのこと。この手法は、生物に興味がなくても、還元的に細胞を扱う価値観が得られ有用だと、確かに俺も思う。
もちろん、図示することと色塗りはかなり違うが、「ケント紙に細胞の各器官の輪郭線を描き、他の濃淡は点描する」という行為は、レベルとしては高校の(しかも底辺)レベルに近いことを認識すべきだろうと思う。
それに、本当に「ケント紙に細胞をスケッチすること」に何らかの価値があると思うなら、教授もポスドクも大学院生も、1年にいっぺんくらいはそれをやってなきゃ、あかん。生物系の人全員に「一度は」やらせることに価値があると思っているような行為について、自らは「一度やったからそれでいい」というのは成り立たないと思う。
一方、電気力線やファインマンダイアグラムなど、物理学には一見すると複雑にみえる自然現象を、図示と数式を重ねることで理解しようとする取り組みがある。これは、図示による理解を数式として表すこと、さらに数式の一部を図示してしまうという武器で、端的にいえばヤバい笑。細胞を具象として描くなんてことよりも、遥かに有用性(応用性)の高い武器であり、得られる価値観も新鮮なはずだ。描いたGaussian SurfaceやAmperian Loopを貫く力線についてガウスの法則やアンペールの法則の積分系を立式する、という発想も素晴らしいし、摂動展開のそれぞれの項をファインマンルールに従って相互作用を描くという発想も、素晴らしい。これらをマスターするには、まともな教科書を読んだり、信用あるプロに習わなければ理解不可能だ。
抽象化して図示するというのは、現状をより正しく把握しようということである。
複雑な世界を単純化して理解するのが自然科学の1つの目標だが、そのやり方として単純な還元主義のもとに描くことと、最低限の要請事項だけで構成され、しかもそれら理論体系が(少なくともある程度は)正しく接続されている公理系のもとに描くことには、かなり違いが生じるということである。
自然科学に限らず、何かの対立関係や人間関係や政治力学も図示することで見えてくることもある。
わからなかったら、わかっていることを図示!コレは、論理展開において、基本中の基本である。
さしあたり、今、あなたが所属している集団の、人間関係の図示をしてみてはいかがだろうか?「好き」「嫌い」「どうでもいい」の矢印で各人を結んでみるだけで、かなりの理解が深まるはずだ。ちなみに、(一部の皆さんご存知のように)俺は、毎年この時期、必ずやっている笑。(縦軸をABCグループにすることがポイント。かなり新しいことが沢山理解できてくる)
めっちゃ楽しいぞ!笑
というのは、自然科学の中でよく言われることである。人が何かを認識するとき言語だけで頭の中で構築するのは難しいことが多い。例えば、読者の中で何人が、小説など(挿絵の少ない本)を読んでいて、登場人物などの相関を図示してみたことがあるだろうか?みんな日本語がわかっていると言うのは大いなる勘違いで、「わかった」と仮定して先を読み進めているだけ、ということも多々あるのだ。
1つの数式から物理現象をイメージすることは、慣れてしまえばそんなに難しいことではない。しかし、2つの互いに依存しあった式を同時に頭の中だけでイメージすることは一気に難しくなり(俺程度の思考力レベルでは多くの場合、不可能)、3つ以上の式になればどんなに簡単で平衡状態で時間に依存しなかったとしても数値計算でself-consistentに解いてパソコンに図示させてみなければ、そのイメージすらわからない場合が殆どだ。
人間が言語化によって得られる情報は意外と少なく、「図示する」という行為によって視覚化することで、思わぬ自然法則が明らかになることは多い。
それほどに「図示する」という行為は自然科学にとって重要なのだが、これは単純に「リアルな絵を描く」という行為とは違う。
「図示」というのは、抽象化を含み、不要な部分を排除するということである。よく「抽象化(abstraction)」というと「曖昧にすること」と読み替えている人がいるが、必要な骨格だけを「抽」出するというのが本来の意味である。芸術に詳しくはないが、具象絵画が現実に忠実に書こうとするのに対して、抽象絵画というのは具象から骨格や本質を「抽」出してきた際のモデルを描くという理解を(俺は)していて、(おそらく)共通だと思う。
つまり、俺は、(あくまで)サイエンスにおいて(は)、何らかの理論的予測や価値観や興味対象を持って「図示する」行為には意味があるが、ただ単純に具象を正確に記述することの意義はかなり低くなると考えている。
この違いを明確に持つと、今の時代に大学の学部教育の中でケント紙に細胞をスケッチさせる価値は殆ど無い、ということが明らかだと思う。
勘違いしないでほしいのは、一度くらいはきちんと細胞小器官別に(もしくは他の価値観で)抽象化して自分で図示することにはそれなりの価値があると思うし(顕微鏡で細胞を観ながら描くと良い)、顕微鏡画像をデジタルに処理してイメージングすることにももちろん価値があるが、学部生全員に具象として「ケント紙に細胞を輪郭線以外は点描させる」という行為は旧世代の先生方の自己満足である(つまり、わざわざ習うことではない)。それこそ、今の時代、Z-Stackがキレイにとれるので、三次元に図示させてみるような課題を作ってもいいかもしれない(PC上でも、実際でも、どっちでも良い)。どの種類の細胞かにも依るが、細胞は生命の最小単位である。非常に価値がある、、かもしれない。
だが、やはり、どんな崇高な価値観を持って、細胞を抽象化させて精緻にスケッチ・工作・イメージングしてみたとしても、細胞の機序が完全にわかっていないうちは、還元主義の枠からでないことは認めなければならないだろう。生物学が物理学からスタートしている公理系に接続していない以上、仕方ない(化学は20世紀でだいたい接続しているから、まぁまだ良かったよね)。
俺が大学で教職をとっていたとき、偏差値が低く授業中に席に座っていられないような高校の生物の授業モデルとして、「細胞を色塗りさせるのが効果的」という内容を扱った。資料集にある細胞を白黒にクラス全員分印刷して、「好きな色で塗りましょう」と言うと、不思議なくらい皆集中して席に座っていられるとのこと。この手法は、生物に興味がなくても、還元的に細胞を扱う価値観が得られ有用だと、確かに俺も思う。
もちろん、図示することと色塗りはかなり違うが、「ケント紙に細胞の各器官の輪郭線を描き、他の濃淡は点描する」という行為は、レベルとしては高校の(しかも底辺)レベルに近いことを認識すべきだろうと思う。
それに、本当に「ケント紙に細胞をスケッチすること」に何らかの価値があると思うなら、教授もポスドクも大学院生も、1年にいっぺんくらいはそれをやってなきゃ、あかん。生物系の人全員に「一度は」やらせることに価値があると思っているような行為について、自らは「一度やったからそれでいい」というのは成り立たないと思う。
一方、電気力線やファインマンダイアグラムなど、物理学には一見すると複雑にみえる自然現象を、図示と数式を重ねることで理解しようとする取り組みがある。これは、図示による理解を数式として表すこと、さらに数式の一部を図示してしまうという武器で、端的にいえばヤバい笑。細胞を具象として描くなんてことよりも、遥かに有用性(応用性)の高い武器であり、得られる価値観も新鮮なはずだ。描いたGaussian SurfaceやAmperian Loopを貫く力線についてガウスの法則やアンペールの法則の積分系を立式する、という発想も素晴らしいし、摂動展開のそれぞれの項をファインマンルールに従って相互作用を描くという発想も、素晴らしい。これらをマスターするには、まともな教科書を読んだり、信用あるプロに習わなければ理解不可能だ。
抽象化して図示するというのは、現状をより正しく把握しようということである。
複雑な世界を単純化して理解するのが自然科学の1つの目標だが、そのやり方として単純な還元主義のもとに描くことと、最低限の要請事項だけで構成され、しかもそれら理論体系が(少なくともある程度は)正しく接続されている公理系のもとに描くことには、かなり違いが生じるということである。
自然科学に限らず、何かの対立関係や人間関係や政治力学も図示することで見えてくることもある。
わからなかったら、わかっていることを図示!コレは、論理展開において、基本中の基本である。
さしあたり、今、あなたが所属している集団の、人間関係の図示をしてみてはいかがだろうか?「好き」「嫌い」「どうでもいい」の矢印で各人を結んでみるだけで、かなりの理解が深まるはずだ。ちなみに、(一部の皆さんご存知のように)俺は、毎年この時期、必ずやっている笑。(縦軸をABCグループにすることがポイント。かなり新しいことが沢山理解できてくる)
めっちゃ楽しいぞ!笑