怜子の冒頭は次のようになっています。
怜子 いい女になったね
惚れられると 女は
本当に変わるんだね
歌い手である「私」にとって,いい女というのがどのような女であるのかは分かりません。でも,怜子が惚れられることで変わったというように私が思っていることは間違いありません。つまり私は,惚れられる前の怜子と惚れられた後の怜子を共に知っていることになります。
怜子 ひとりで街も歩けない
自信のない女だった
おまえが 嘘のよう
私にとって怜子の変わりようがあまりに激しかったことを窺わせる一節だといえるでしょう。今の怜子は,かつての印象からは信じられないくらいに自信に満ち溢れてるのです。
『破門の哲学』には,『エチカ』は第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて記述されているわけではないという識者の見解が示されています。ですから『エチカ』という公理系が,理性ratioによる推論で記述され,また理性によって解されるべきものであるということは,共通見解であるとはいえません。ですが,僕はそうでなければならないと考えますので,この考察ではそれを前提としていきます。
ゲーデルの不完全性定理をカヴァイエスJean Cavaillèsがどのように受け止めたのかといえば,単に公理系は公理系によって真verumであることを証明できないということではなく,理性による認識cognitioには限界があるということでした。第二種の認識が理性による認識と同じ意味をもつのですから,僕のように『エチカ』は理性に基づいて記述され,理性に従って解釈されなければならないと解するなら,カヴァイエスがもった問題意識と同様に,そこに限界があるという見解を受け入れなければなりません。不完全性定理は仮説ではなく,手続きを踏んで証明された定理Propositioであるからです。ところが,『エチカ』というのは,理性による認識にはある種の限界があるということを含んでいるような公理系になっているのです。
なぜ『エチカ』にそのような要素が含まれているのかという理由は,不完全性定理とは無関係です。いい換えれば,スピノザは不完全性定理のようなものがいずれ証明されるということを想定していたわけではありません。というより,このような定理が証明されるというようなことはたぶんスピノザはつゆほどにも思っていなかったことでしょう。それなのになぜスピノザが『エチカ』の中に理性による認識すなわち第二種の認識の限界のようなものを含ませていたかといえば,そもそもスピノザがどのようなことを考えようとしていたのかということと関係します。後に詳しく説明することになりますから,ここではごく簡単にいっておきますが,スピノザは一般的なものよりは個別的なもの,普遍的なものよりは特殊的なものを十全に認識するcognoscereことを目指していました。どんな事物であれ,一般的に認識されるほど混乱して認識され,個別的に認識されるほど十全に認識されると考えていたからです。
怜子 いい女になったね
惚れられると 女は
本当に変わるんだね
歌い手である「私」にとって,いい女というのがどのような女であるのかは分かりません。でも,怜子が惚れられることで変わったというように私が思っていることは間違いありません。つまり私は,惚れられる前の怜子と惚れられた後の怜子を共に知っていることになります。
怜子 ひとりで街も歩けない
自信のない女だった
おまえが 嘘のよう
私にとって怜子の変わりようがあまりに激しかったことを窺わせる一節だといえるでしょう。今の怜子は,かつての印象からは信じられないくらいに自信に満ち溢れてるのです。
『破門の哲学』には,『エチカ』は第二種の認識cognitio secundi generisに基づいて記述されているわけではないという識者の見解が示されています。ですから『エチカ』という公理系が,理性ratioによる推論で記述され,また理性によって解されるべきものであるということは,共通見解であるとはいえません。ですが,僕はそうでなければならないと考えますので,この考察ではそれを前提としていきます。
ゲーデルの不完全性定理をカヴァイエスJean Cavaillèsがどのように受け止めたのかといえば,単に公理系は公理系によって真verumであることを証明できないということではなく,理性による認識cognitioには限界があるということでした。第二種の認識が理性による認識と同じ意味をもつのですから,僕のように『エチカ』は理性に基づいて記述され,理性に従って解釈されなければならないと解するなら,カヴァイエスがもった問題意識と同様に,そこに限界があるという見解を受け入れなければなりません。不完全性定理は仮説ではなく,手続きを踏んで証明された定理Propositioであるからです。ところが,『エチカ』というのは,理性による認識にはある種の限界があるということを含んでいるような公理系になっているのです。
なぜ『エチカ』にそのような要素が含まれているのかという理由は,不完全性定理とは無関係です。いい換えれば,スピノザは不完全性定理のようなものがいずれ証明されるということを想定していたわけではありません。というより,このような定理が証明されるというようなことはたぶんスピノザはつゆほどにも思っていなかったことでしょう。それなのになぜスピノザが『エチカ』の中に理性による認識すなわち第二種の認識の限界のようなものを含ませていたかといえば,そもそもスピノザがどのようなことを考えようとしていたのかということと関係します。後に詳しく説明することになりますから,ここではごく簡単にいっておきますが,スピノザは一般的なものよりは個別的なもの,普遍的なものよりは特殊的なものを十全に認識するcognoscereことを目指していました。どんな事物であれ,一般的に認識されるほど混乱して認識され,個別的に認識されるほど十全に認識されると考えていたからです。