スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

品薄&欺瞞の二面性

2021-02-16 19:11:22 | 哲学
 僕たちの他人の欲望の表象は,他人の行動に左右されます。よって欲望cupiditasという感情の模倣affectum imitatioは,行動の模倣へ向います。なおかつ感情の模倣は,表象するimaginari頻度が多くなるほど強化されますので,多くの人間が同じ行動をとっているのを表象すると,自分のその行動へと向かう欲望は高まります。ですから何もなければ欲望していなかった行動に対しても,その行動をする人を多く表象すると,それを欲望すようになるという現実的本性actualis essentiaが人間にはあるということになります。
                                  
 さらにこれと異なった状況が,人にある行動へと向かわせる欲望を強化させます。それはその欲望を充足させるのが困難であると表象されるにしたがって,その欲望が強まるという人間の現実的本性です。人間にこうした現実的本性があるということは,第三部定理三二の意味として僕がかつて指摘したことから明らかだといえるでしょう。
 これらのことから,ある状況では,普段であればだれも強くは欲望しない事柄を,多くの人が欲望するようになる場合があるということが説明できます。あるいは,普段であればだれもそのような行動はとらないのに,ある場合には多くの人間が同じ行動をとる場合があるということが説明できます。多くの人が同じ行動をとると,その行動に向う欲望は強化され,かつ多くの人間が同じ行動をとることによって,強化されたその欲望を充足させることが困難になると表象されることにより,さらにその欲望は強まるからです。
 トイレットペーパーとかティッシュペーパーは,普段であればそれほどそれを入手する欲望を人間は強くは抱かないでしょう。なのでそれが品薄になるようなことは普通はありません。ところが昨年の緊急事態宣言が発出された時期にはそうした現象が生じました。それは上述したような人間の現実的本性が影響しているのです。多くの人間がそれを買い,そのことによってそれを入手することが困難になるために,それらを入手する欲望が普段に比べると格段に高まるからです。
 人間の受動状態の現実的本性は,その人間の外部の影響を受けて決定されます。こうした事情が,ある状況下では生じないような事象を発生させるということがあるのです。

 デカルトRené Descartesの主張がレヴィウスJacobus Reviusuからみるとどのようになるのかは,レヴィウスの立場とスピノザの立場が正反対なのですから,スピノザからみたのとは真逆になります。したがって,スピノザからみれば,デカルトは自己由来性を積極的に解しているのに,神Deusが自己原因causa suiであることを否定しまた自己原因が起成原因causa efficiensであることも否定しているので,きわめて欺瞞的だとみえているのですから,レヴィウスからすると,デカルトは神が自己原因であることを否定しまた自己原因が起成原因であるということも否定しているのに,自己由来性,とくに神の自己由来性について積極的に解しているので,きわめて欺瞞的だということになるのです。つまりレヴィウスにとって何が重要であったのかといえば,自己由来性を積極的に解するべきなのか,それとも消極的にすなわち起成原因を有さないという意味に解するべきなのかという点だったのです。いい換えれば,神が自己原因であるか否かとか,自己原因が起成原因であるか否かといったことは,すべてそこから発生してくるのです。そしてこの立場は,レヴィウスだけではなく,この自己原因論争でデカルトと対峙した,カテルスJohannes CaterusやアルノーAntoine Amauldにとっても同じだったといえるでしょう。
 もっというと,この点だけでいうと,スピノザともレヴィウスやカテルス,アルノーの立場は一致していたということができます。なぜなら,もしも自己由来性を積極的に解するならば,神は自己原因であって自己原因は起成原因であるということが帰結するという点で,スピノザとレヴィウスたちは一致しているといえるからです。その点で一致しているから,神が自己原因であることそして自己原因が起成原因であることを肯定する立場のスピノザからも,それを否定するレヴィウスたちの立場からも,デカルトが詭弁を弄しているようにみえることになるからです。
 これでみれば分かるように,僕が「デカルトの欺瞞」といっている欺瞞には,二面性があったということになります。つまりそれは,単にスピノザの立場からみて欺瞞的であったわけではありません。カテルスやアルノーそしてレヴィウスからみても,デカルトは欺瞞的だったのです。
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