スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&注意点

2021-02-22 19:02:08 | 将棋
 20日に北國新聞会館で指された第46期棋王戦五番勝負第二局。
 糸谷哲郎八段の先手で角換り。先手が1筋の位を取っている間に後手の渡辺明棋王早繰り銀から速攻。銀交換に持ち込み,先手は右玉にしました。
                                        
 先手が右玉を明示した局面。ここで後手は☖1四歩と突きました。
 ここは先手が手を掛けているところなので,ここから後手が攻めて局面が互角の分かれになれば,先手の作戦負けでしょう。したがって先手はこの仕掛けに対しては有利に持ち込まなければならず,そういう手順がないのであれば,すでに第1図で先手は不利に陥っていたということになります。
 ☗同歩に☖1七歩と垂らしたところで☗2七銀と打って受けました。これはいかにも苦しそうな手で,すでに先手には暗雲が立ち込めているといったところだと思います。
 後手は☖1四香と走り☗1六歩と受けた手に対して☖1八銀と打ちました。
 ここで☗同銀と取る方がよかったようですが,それでも後手には多くの手段がありそうです。実戦は☗同香と取ったために☖同歩成ではなく☖1六香と走られました。
                                        
 おそらく先手は第2図の☖1六香を見落としていたものと推測します。作戦負けと思われる局面の後で見落としも出ては,さらに差が開きました。
 渡辺棋王が勝って1勝1敗。第三局は来月7日に指される予定です。

 これは柏葉の論文の論考とは無関係ですが,僕はこの点には強く注意を促しておきたいのです。あるものについて,それが存在するとか存在し得るというなら,これはそのものについての積極的な肯定affirmatioです。これに対してあるものが存在しないとか存在し得ないというなら,そのものについての消極的な言明であり,否定negatioであることになります。スピノザの第一部定理一一第三の証明は,これに類することが前提となっていて,スピノザはそのことは自明であるといっています。
 第五部定理二九備考で,スピノザは人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioのあり方を,二種類に分類しています。すなわち僕たちは事物を一定の時間tempusや空間と関連付けて認識するcognoscereか,神Deusの本性naturaの必然性necessitasから生起するものとして神の中に含まれるものとして認識するかのどちらかです。このうち,僕たちが後者の仕方である事物を認識する場合は,僕たちはその事物を永遠の相species aeternitatisの下に認識するといわれることになります。第二部定理四四系二から分かるように,それは理性の本性natura Rationisに属する認識のありようです。また第五部定理二九から分かるように,同時にそれは第三種の認識cognitio tertii generisで僕たちが個物res singularisを認識するときのありようでもあります。したがってこれら二種類の認識のあり方のうち,事物を永遠の相の下に認識するあり方に対して,スピノザはより高い評価を与えていることになります。これはあくまでもより高い評価なのであって,前者の認識,つまり人間の精神が事物を一定の時間や空間と関連付けて認識すること,たとえば人間の精神がある事物を表象するimaginariということについて,スピノザが何の価値も認めていないという意味ではありません。
 現実的に存在するものを認識するというとき,それは現実的であるという点で,一定の時間の制約を受けています。いい換えれば人間の精神があるものを現実的に存在すると認識する場合は,そのものを永遠の相の下には認識していません。他面からいえば,このブログにおいては,事物を永遠の相の下に認識するというのとは別の認識のあり方として,事物を現実的に存在するものとして認識するといわれることになります。この点で柏葉の分類に注意をしたいのです。
コメント
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