スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&第四答弁

2021-02-08 19:19:16 | 将棋
 6日に指された第46期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が15勝,糸谷哲郎八段が5勝。
 振駒で渡辺棋王の先手となり,糸谷八段の雁木。先手が右四間飛車から攻勢に出て,優位には立ったようです。しかし明快な決め手がないまま中盤が長く続きました。
                                        
 第1図では☗4四歩☖同角☗5一銀と打つ手があったようです。とはいえこの順はどちらが勝つにせよ,すぐに決着がつく順です。感想戦の感じだと先手はその順は読んでいなかったようですが,もし読んでいたとしても,はっきり勝ちということが読み切れない限りはこの順には踏み込まないでしょう。すぐに決着がつくけれどもどちらが勝つか分からない順に進めるよりは,すぐの勝ちはなくても勝負を長引かせる方が得策だからです。ですからこの順に進めなかったのは,人間的な観点からいえば判断を誤ったとはいえないと思います。
 実戦は☗7五銀と打ちました。ただこれはあっさり☖同飛☗同歩で☖5三玉。
                                        
 後手は駒損はしましたが,先手の角筋を二重に止めた上で懸案となっていた歩を払うことに成功。ここで後手が少し優位に立てたようです。第1図からの先手の手順が仕方がなかった以上,先手はそこまでのもっていき方に問題があったということになりそうです。
 糸谷八段が先勝。第二局は20日に指される予定です。

 アルノーAntoine Amauldによる第四論駁に対するデカルトRené Descartesの第四答弁は,多岐にわたる内容を含んでいます。まずデカルトが強調しているのは,神Deusが自己自身の起成原因causa efficiensであるということについては,デカルトは否定しているということです、つまりデカルトは,神が自己原因causa suiであるということを肯定していないということを第一に強調しているのです。いい換えればデカルトは,このことを強調することによって,アルノーの理解を得られると予想していたのだと僕には思えます。
 その後にデカルトは,起成原因を必要としないものが存在すると考えているといっています。もちろんこのときにデカルトが念頭に置いているのは,神のことです。実際にデカルトは,神のほかに何がそのようなものであり得るだろうかといっています。つまりデカルトは,神が神自身の起成原因であるということは否定し,神は起成原因を必要とせずに存在する,つまり起成原因なしに,ある理由によって神は存在するといっていることになります。スピノザの立場からみると,この二点においてデカルトとアルノーは一致しているようにみえるでしょう。
 次にデカルトは,神の汲み尽くすことができないほどの力potentiaが,神が存在するための起成原因を必要としない理由であるといい,この汲み尽くすことができないほどの力を神の本性essentiaの広大無辺性と等置します。つまりデカルトは第二答弁で,神の広大無辺性が,神が存在するための起成原因を必要としない理由であるといっていたわけですが,この第四答弁の中で,その広大無辺性の意味を明らかにしているわけです。アルノーは,無限infinitumであるものが存在するための起成原因を有さない理由はその無限であるもの自身の本性にあると主張していて.主張の内容に差があるといえばあるでしょうが,この部分のデカルトの主張については,アルノーにとって受け入れることが不可能なものであると僕には思えません。
 しかしデカルトは重ねて次のようにいいます。神の本性の広大無辺性というものはこの上なく,つまり最高に積極的なものなので,デカルトは神が存在するために起成原因を必要としない理由もまた積極的であると解するというのです。
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