スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典帝王賞&可分性

2016-06-30 19:17:23 | 地方競馬
 昨晩の第39回帝王賞
 まずアスカノロマンが先頭に立ちましたが,騎手は抑え気味。これを見て外から交わしたクリソライトの逃げになりました。2馬身差で控えたアスカノロマン。1馬身差でコパノリッキー。さらに1馬身差で発走後にすぐに内に入れたアムールブリエとホッコータルマエの併走。ここから3馬身ほど開いてサウンドトゥルー。さらに半馬身ほどでノンコノユメという隊列に。最初の1000mは62秒2のスローペース。
 3コーナーにかけて前の馬群が凝縮。この時点でアムールブリエは鞭が入って脱落。ホッコータルマエまでの4頭がほぼ雁行に。外から被されるのを嫌ったかコパノリッキーがコーナーで仕掛けていき前の2頭を交わして先頭に。ホッコータルマエが追って2番手。外を捲ったノンコノユメが3番手で直線に。コパノリッキーを追っていたホッコータルマエは苦しくなりノンコノユメが2番手に。しかしコパノリッキーはノンコノユメ以上に伸びたので最後は突き放す形で優勝。ノンコノユメが3馬身半差で2着。ノンコノユメに先に行かれたサウンドトゥルーが直線ではさらに外から脚を伸ばし5馬身差で3着。コパノリッキーに突き放されたホッコータルマエは3馬身半差で4着。故障したアウォーディーを除くと現ダート中長距離の最強メンバーが揃った一戦になり,ダートの力勝負らしい着差の開いた結果になりました。ペースの関係もあり時計こそ出ませんでしたが,これはメンバーランクの高さの証だと思います。
                              
 優勝したコパノリッキーは前走のかしわ記念に続く大レース7勝目。この馬の場合は自身のペースで走れるかどうかがすべて。向正面ではやや行きたがっていたようにも見えましたが,3番手で折り合いをつけ,ホッコータルマエが来るとみるやすぐさまスパートして相手の思い通りにさせず,同時に末脚を武器にする馬たちの追撃も封じることに成功。最も能力を出せたのがこの馬でしたし,能力の上限もこの馬が一番だったようです。ただしいつでもこのように力を発揮できるわけではなく,相手の動向次第で崩れてしまう可能性はまだあるとみておいた方がよいかと思います。父はゴールドアリュール。祖母の従弟に2002年の大阪杯,2005年の大阪杯と毎日王冠を勝ったサンライズペガサス
 騎乗した武豊騎手イスパーン賞以来の大レース制覇。国内ではかしわ記念以来。第28回,32回,34回,37回と勝っていて2年ぶりの帝王賞5勝目。管理している村山明調教師はかしわ記念以来の大レース制覇。帝王賞は初勝利。

 『デカルトの哲学原理Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae』の第二部の内容に関して,スピノザが概ねデカルトの見解,正確にいうとこれはスピノザが解したところのデカルトの見解ですが,それに追随していたのだとしても,そこでカセアリウスに教えたことのすべてをスピノザが是認していたと解するなら,これは決定的な誤謬であるといわなければなりません。なぜなら,デカルトの延長論では,物体的実体という実体が必然的に存在しなければならないということが主張されていますが,それは神とは異なる実体であると規定されているからです。しかしスピノザの考えでいえば,物体的実体というのは延長の属性にほかなりません。したがって第一部定義六によってそれは神の本性を構成しなければならないからです。よってデカルトの哲学でいわれる物体的実体とは,スピノザの哲学においては延長の属性の下で認識される,あるいは説明される限りでの神にほかなりません。このことはカセアリウスにデカルト哲学を教授していた時期のスピノザのうちに明確にあった考え方だといっていいでしょう。
 デカルトが物体的実体を神とは別の実体とみなしたのは,物体的実体は可分的であると判断し,この可分性が神の本性には適合しないと考えたからです。対してスピノザは第一部定理一三系で,たとえ物体的実体ではあってもそれは可分的ではないということを示しています。だから『デカルトの哲学原理』の第二部のすべてについて,スピノザがデカルトの主張を肯定していたということはあり得ません。そしてこのことがカセアリウスに教授した内容に含まれています。したがってスピノザは,自身は誤りであると考えていた内容も,カセアリウスに対して教えていたことは間違いありません。
 物体的実体が可分的ではないとスピノザが考えていたことは,工藤が示している,スピノザのロバート・ボイルRobert Boyleの主張に対する誤解の遠因のひとつであったかもしれないと僕は考えています。ですがそれについては今は触れません。『スピノザ哲学研究』で示されているスピノザとボイルの間の論争に関して,『デカルトの哲学原理』と最も関係していると僕がみなす部分が別にあるので,そちらが先です。
コメント
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