スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

思い出す事など&身体的負担

2016-06-11 19:12:36 | 歌・小説
 漱石のドストエフスキー評のうち,漱石が示したドストエフスキーへの親近感の要因になった死の瀬戸際からの生還や,漱石が共通の精神状態と解した高揚感については,『思い出す事など』の二十と二十一に書かれています。僕が読んだのは新潮文庫版で,新潮文庫版の『思い出す事など』は『文鳥・夢十夜』の表題でほかの作品とともに収録されています。ここでは『思い出す事など』についてのみ紹介します。
                                     
 これは1910年10月29日から1911年4月13日にかけて朝日新聞に連載されたものです。朝日新聞に入社して以降の漱石は,公刊するものについてはすべて最初に朝日新聞に掲載しました。必然的にそれ以降のものはすべて連載という形式が採用されています。これは小説を読解する場合にも無視することができない観点だと僕は思っています。
 『思い出す事など』は小説ではなく随筆に相当します。いわゆる修善寺の大患が1910年8月のことで,生命の危機から脱した漱石が最初に書いたものであり,とくに大患のことが執拗といっていいほどに書かれているものです。読者に対して回復を伝えるという意味も含まれていたのでしょう。ただしところどころに俳句や漢詩が含まれていて,純然たるエッセーというのとも少し違っています。
 ここに漱石が書いていることを解そうとする際に最も重要なことは,これが紙面に掲載されているという点だといえるでしょう。漱石はそれと知って書いているのですから,だれに読まれても構わないと考えたことだけを書いた筈であって,おそらく伏せておいたこともあっただろうと思われるからです。したがってここに嘘が書かれているというように疑わなければならない理由は多くないと思いますが,漱石にとっての真実のすべてが書かれているというように考えるのは危険だろうと思います。ですからこれを何らかの歴史的資料として読もうとする場合には,漱石が公開を前提とせずに書いたもの,すなわち日記や手紙,またほかの人物の視点から書かれた当時の状況などと照らし合わせる必要があると思います。

 9月6日,日曜日。母と妹が美容院に行きました。
 9月10日,木曜日。この日から妹の施設の旅行がありました。毎年あるもので,よくある表現でいえば社員旅行のようなものです。この年は西伊豆でした。僕はこの日は長者町で午後4時25分に帰りました。
 9月11日,金曜日。旅行を終えた妹が帰る日です。旅行の荷物がありますから迎えが必要で,母が行きました。僕はこの日は東神奈川。帰ったのは午後5時15分で,そのときにはすでに母も妹も帰宅していました。
 9月12日,土曜日。ピアノのレッスンがありました。午後2時からでした。
 9月13日,日曜日。ガイドヘルパーを利用。ボーリングでした。ボーリングはいつもは新杉田でやっているのですが,この日は予約が取れなかったとのことで,伊勢佐木町にあるボーリング場でした。ほかの参加者との兼ね合いで,新杉田のときには1本で行かれるバスでは行かず,根岸駅までバスで行き,電車に乗り換えることになります。伊勢佐木町にはバス1本で行くことになりますので,妹の身体的負担だけを考えれば,こちらの方が楽なのではないかと思います。とくに妹にしては予定が立て込んでいた時期でしたから,アクシデントに近い形とはいえ,伊勢佐木町になったのはむしろ幸いだったと思います。
 9月14日,月曜日。妹の遺伝科の通院。午後1時から。診察だけだったそうです。僕がこの日は伊勢佐木町で,午後4時15分には帰ることができたのですが,すでに母と妹が戻った後になりました。
 9月17日,木曜日。妹はショートステイへ。南区の施設で1泊でした。荷物の関係からこの日は朝の迎えを依頼しました。僕はこの日は午前中だけ本牧で,午後はオフでした。
 9月18日,金曜日。ショートステイを終えた妹が帰りました。この日も送ってもらうように手配してありました。僕はこの日は長者町で,帰ったのが午後5時15分になりましたので,妹の帰宅には間に合いませんでした。
 9月20日,日曜日。昼前に母と妹がお寺に出かけました。これは彼岸の塔婆を受け取るためです。昼食用のおにぎりももらって帰りました。
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