昨年は東日本で最後の記念として開催された伊東記念ですが,今年は1ヶ月前に移行され,今日が決勝(動画)ということになりました。
やや牽制がありましたが,村上選手がSを取って前受け。選手紹介ではこの後ろを手島選手が追走していたようですが,渡辺選手がこの位置にこだわり,取り合いに。一旦は手島選手が取り,石橋選手が5番手,井上選手が8番手での周回に。
最初に上昇した井上選手はすんなりと村上選手を叩き,残り2周のホームでは前に。石橋選手の上昇を村上選手が合わせて出て,石橋選手は一旦は3番手に入ったのですが,打鐘で村上選手が先行し始めるところで外から追い上げた手島選手に奪われました。井上選手がこのラインに続き,地元勢はホームでは7番手以降。結局はこの隊列がほとんど変わらず,最終コーナーの半ばから発進した手島選手が差し切って優勝。マークの小倉選手が2着で,村上選手の番手の浜口選手が3着でした。
優勝した群馬の手島慶介選手は4月に弥彦のふるさとダービーを優勝していますが,記念競輪は昨年6月の高松記念以来ですので今年初制覇で通算7勝目。。グランプリに出られるかどうか賞金面でぎりぎりの位置ですので大きな優勝。先行意欲の高い村上選手ライン追走を選び,一旦は失いかけたものの追い上げて取りきったのが最大の勝因でしょう。
第二部公理一が示していることというのは,以前に別のテーマの中で扱ったスピノザの哲学における数の問題,すなわち,もしもあるものが数によって区別され得るのであれば,それは実在的区別ではなく様態的区別であるということと深く関連しています。現在の考察とは少し離れてしまいますが,これはスピノザの哲学においても意外と重要なことだと僕は思っていますので,ここでも簡単に説明しておくことにします。
そもそも第二部公理一の内容が正しいということは,人間が現実的に存在する原因が,人間の内部にあるのか外部にあるのかということをとくに考えるまでもなく理解できることなのです。というのは,人間というのはひとりではなく何人かが現実的に存在し,また過去にも存在したわけですが,もしも同じ本性を有する複数のものが現実的に存在するならば,あるいは存在することが可能であるならば,そうしたものの本性のうちにはそれ自身の存在が含まれることはないからです。
これは次のように考えれば分かります。もしもある人間がいて,この人間の本性のうちに人間の存在が含まれているならば,もしもこの人間が存在しなくなれば,要するに死んでしまえば,人間の存在もまた消えるということになります。すなわちすべての人間が存在し得なくなるでしょう。しかしこんなことを主張するのはそれ自体で不条理であるということはいうまでもありません。そもそも第二部定義二の意味からして,本性というのはそのものの存在を定立するのですから,ある人間が死ぬということによって人間の本性が消滅するというわけではない以上,どんな人間の本性のうちにも人間の存在が含まれていないということは明らかです。
つまり,同じ本性を有する複数の人間が存在するというだけの理由をもってして,この第二部公理一が成立しているということはもう疑い得ないといえるでしょう。
やや牽制がありましたが,村上選手がSを取って前受け。選手紹介ではこの後ろを手島選手が追走していたようですが,渡辺選手がこの位置にこだわり,取り合いに。一旦は手島選手が取り,石橋選手が5番手,井上選手が8番手での周回に。
最初に上昇した井上選手はすんなりと村上選手を叩き,残り2周のホームでは前に。石橋選手の上昇を村上選手が合わせて出て,石橋選手は一旦は3番手に入ったのですが,打鐘で村上選手が先行し始めるところで外から追い上げた手島選手に奪われました。井上選手がこのラインに続き,地元勢はホームでは7番手以降。結局はこの隊列がほとんど変わらず,最終コーナーの半ばから発進した手島選手が差し切って優勝。マークの小倉選手が2着で,村上選手の番手の浜口選手が3着でした。
優勝した群馬の手島慶介選手は4月に弥彦のふるさとダービーを優勝していますが,記念競輪は昨年6月の高松記念以来ですので今年初制覇で通算7勝目。。グランプリに出られるかどうか賞金面でぎりぎりの位置ですので大きな優勝。先行意欲の高い村上選手ライン追走を選び,一旦は失いかけたものの追い上げて取りきったのが最大の勝因でしょう。
第二部公理一が示していることというのは,以前に別のテーマの中で扱ったスピノザの哲学における数の問題,すなわち,もしもあるものが数によって区別され得るのであれば,それは実在的区別ではなく様態的区別であるということと深く関連しています。現在の考察とは少し離れてしまいますが,これはスピノザの哲学においても意外と重要なことだと僕は思っていますので,ここでも簡単に説明しておくことにします。
そもそも第二部公理一の内容が正しいということは,人間が現実的に存在する原因が,人間の内部にあるのか外部にあるのかということをとくに考えるまでもなく理解できることなのです。というのは,人間というのはひとりではなく何人かが現実的に存在し,また過去にも存在したわけですが,もしも同じ本性を有する複数のものが現実的に存在するならば,あるいは存在することが可能であるならば,そうしたものの本性のうちにはそれ自身の存在が含まれることはないからです。
これは次のように考えれば分かります。もしもある人間がいて,この人間の本性のうちに人間の存在が含まれているならば,もしもこの人間が存在しなくなれば,要するに死んでしまえば,人間の存在もまた消えるということになります。すなわちすべての人間が存在し得なくなるでしょう。しかしこんなことを主張するのはそれ自体で不条理であるということはいうまでもありません。そもそも第二部定義二の意味からして,本性というのはそのものの存在を定立するのですから,ある人間が死ぬということによって人間の本性が消滅するというわけではない以上,どんな人間の本性のうちにも人間の存在が含まれていないということは明らかです。
つまり,同じ本性を有する複数の人間が存在するというだけの理由をもってして,この第二部公理一が成立しているということはもう疑い得ないといえるでしょう。