今年の第138回天皇賞(秋)においてまず特記しておくべきことがあるとしたら,やはりその年のダービー馬が出走してきたということになるのではないかと思います。
好発からダイワスカーレットの逃げ。すぐさま後ろを引き離したのですが,トーセンキャプテンが追い掛けてきました。この馬はウオッカと同じ厩舎で,少しでもウオッカの利となるようにという意図はあったと思います。ただし,確かにダイワスカーレットは楽はできませんでしたが,レースを壊してしまうような無謀な騎乗ではなかったとも思います。最初の1000メートルは58秒7。これはミドルペース。
ほとんどの馬は直線に入るまで仕掛けませんでした。好位からのレースとなったディープスカイが馬場の中央から伸びてダイワスカーレットに迫ると,これをマークする位置にいたウオッカがその外に。この2頭が併せ馬のような形になり,一旦はダイワスカーレットを交わしたと思うのですが,再び差し返し3頭の争い。ゴール前でディープスカイが脱落したところ,ダイワスカーレットとディープスカイの間を割ってカンパニーが急襲。先頭,3着が並ぶようにゴール。テレビでの見た目でダイワスカーレット,ウオッカ,カンパニーディープスカイという順と思ったのですが(競馬ブックのTYさんにもそう見えたようです),10分を超える長い写真判定の末の結果は,ウオッカの優勝でダイワスカーレットは2着。差は僅かに2センチほどだったそうです。3着もディープスカイが残っていました。
優勝したウオッカは6月の安田記念以来の勝利で大レース4勝目。父はタニノギムレット,母系はフロリースカップ系シラオキ~ローズトウショウの分枝。この程度の争いになりますと,ゴール地点で馬の首が上がっているか下がっているかといったことに左右されますので,今日は運に恵まれていたということだと思います。相手が強くなるほど力を発揮するという傾向がある馬で,何とも不思議な馬としかいいようがありません。
鞍上は武豊騎手で,2月のフェブラリーステークス以来の大レース制覇。秋の天皇賞は昨年も勝っていてこれが5勝目。春も含めれば11勝目。管理するのは角居勝彦調教師で,こちらは安田記念以来の大レース優勝。天皇賞は春も含めて初制覇となりました。
今日はコースもローテーションもウオッカに利がありましたので,むしろ2着のダイワスカーレットの強さも際立って感じられました。間違いなく近年屈指の名勝負ですので,競馬に興味のない方も,動画を絶対に見てください
明日はJBCデーで,今年は園田。
先にJBCクラシックですが,臨戦過程から中心はフリオーソ◎。力ではサクセスブロッケン○とヴァーミリアン▲で,ボンネビルレコード△,フィールドルージュ△まではチャンスがあるように思います。
JBCスプリントの方はブルーコンコルド◎が中心で,バンブーエール○とフジノウェーブ▲が相手。あとはスマートファルコン△とメイショウバトラー△。
川崎ではロジータ記念。これはブライズメイト◎の相手探しではないかと思います。コーニングストーン○,クリノソーニャ△,ギンザフローラル△,ルーセントタワー△,フクウンラブスター△まで。
また,ふるさとダービー広島も決勝になります。並びは岡部に加藤で東日本,武田-神山の茨城栃木に松坂,永井-山口の岐阜,荒井-紫原で九州。北日本が岡部選手だけになって,武田選手にチャンスという気はします。
失禁の第一の場合と第二の場合は,実はスピノザが挙げている夢遊病者の例と同様なのです。したがって,人間の精神の意志が,自分の身体を運動ないしは静止に決定できるという主張に対し,それが強い意味で主張されている場合には有効な反論というか反証になるわけですが,弱い意味の場合には必ずしもそうではないということになります。しかし第三の場合はそうではありません。この種類の失禁が人間に生じるということ,そしてそれが実際に生じるという意味ではなくて,生じるという可能性があるということについては,経験論的にいって僕たちはだれもそれを否定することができないわけです。しかるにこの種類の失禁というのは,明らかに人間の身体が自分の精神が決定していること,あるいは決定しようとしていることに反するような運動であり,実は人間の身体というのが,どういう場合ではあっても自分の精神の決定に従って,つまりそれを原因として運動ないしは静止という延長作用をしているのではないということの,実証的な例になるということになります。
当初の意図を考えれば,これで今回の考察はその目的達成が果されたということになります。しかし今回は,排尿という運動を経験論的な考察の中心に据えましたので,これに関連して,実は最初に僕が予定していたよりもかなり長くなってしまったのですが,補足をしておきました。というのは,価値観という観点からみた場合には,排尿という運動自体は,一般的にはあまりよいイメージをもたれているものとは僕には思えなかったので,こうしたことを例として考察を進めた以上は,そのあたりのことをスピノザの哲学に照らし合わせて考えておく必要があると思えたからです。
好発からダイワスカーレットの逃げ。すぐさま後ろを引き離したのですが,トーセンキャプテンが追い掛けてきました。この馬はウオッカと同じ厩舎で,少しでもウオッカの利となるようにという意図はあったと思います。ただし,確かにダイワスカーレットは楽はできませんでしたが,レースを壊してしまうような無謀な騎乗ではなかったとも思います。最初の1000メートルは58秒7。これはミドルペース。
ほとんどの馬は直線に入るまで仕掛けませんでした。好位からのレースとなったディープスカイが馬場の中央から伸びてダイワスカーレットに迫ると,これをマークする位置にいたウオッカがその外に。この2頭が併せ馬のような形になり,一旦はダイワスカーレットを交わしたと思うのですが,再び差し返し3頭の争い。ゴール前でディープスカイが脱落したところ,ダイワスカーレットとディープスカイの間を割ってカンパニーが急襲。先頭,3着が並ぶようにゴール。テレビでの見た目でダイワスカーレット,ウオッカ,カンパニーディープスカイという順と思ったのですが(競馬ブックのTYさんにもそう見えたようです),10分を超える長い写真判定の末の結果は,ウオッカの優勝でダイワスカーレットは2着。差は僅かに2センチほどだったそうです。3着もディープスカイが残っていました。
優勝したウオッカは6月の安田記念以来の勝利で大レース4勝目。父はタニノギムレット,母系はフロリースカップ系シラオキ~ローズトウショウの分枝。この程度の争いになりますと,ゴール地点で馬の首が上がっているか下がっているかといったことに左右されますので,今日は運に恵まれていたということだと思います。相手が強くなるほど力を発揮するという傾向がある馬で,何とも不思議な馬としかいいようがありません。
鞍上は武豊騎手で,2月のフェブラリーステークス以来の大レース制覇。秋の天皇賞は昨年も勝っていてこれが5勝目。春も含めれば11勝目。管理するのは角居勝彦調教師で,こちらは安田記念以来の大レース優勝。天皇賞は春も含めて初制覇となりました。
今日はコースもローテーションもウオッカに利がありましたので,むしろ2着のダイワスカーレットの強さも際立って感じられました。間違いなく近年屈指の名勝負ですので,競馬に興味のない方も,動画を絶対に見てください
明日はJBCデーで,今年は園田。
先にJBCクラシックですが,臨戦過程から中心はフリオーソ◎。力ではサクセスブロッケン○とヴァーミリアン▲で,ボンネビルレコード△,フィールドルージュ△まではチャンスがあるように思います。
JBCスプリントの方はブルーコンコルド◎が中心で,バンブーエール○とフジノウェーブ▲が相手。あとはスマートファルコン△とメイショウバトラー△。
川崎ではロジータ記念。これはブライズメイト◎の相手探しではないかと思います。コーニングストーン○,クリノソーニャ△,ギンザフローラル△,ルーセントタワー△,フクウンラブスター△まで。
また,ふるさとダービー広島も決勝になります。並びは岡部に加藤で東日本,武田-神山の茨城栃木に松坂,永井-山口の岐阜,荒井-紫原で九州。北日本が岡部選手だけになって,武田選手にチャンスという気はします。
失禁の第一の場合と第二の場合は,実はスピノザが挙げている夢遊病者の例と同様なのです。したがって,人間の精神の意志が,自分の身体を運動ないしは静止に決定できるという主張に対し,それが強い意味で主張されている場合には有効な反論というか反証になるわけですが,弱い意味の場合には必ずしもそうではないということになります。しかし第三の場合はそうではありません。この種類の失禁が人間に生じるということ,そしてそれが実際に生じるという意味ではなくて,生じるという可能性があるということについては,経験論的にいって僕たちはだれもそれを否定することができないわけです。しかるにこの種類の失禁というのは,明らかに人間の身体が自分の精神が決定していること,あるいは決定しようとしていることに反するような運動であり,実は人間の身体というのが,どういう場合ではあっても自分の精神の決定に従って,つまりそれを原因として運動ないしは静止という延長作用をしているのではないということの,実証的な例になるということになります。
当初の意図を考えれば,これで今回の考察はその目的達成が果されたということになります。しかし今回は,排尿という運動を経験論的な考察の中心に据えましたので,これに関連して,実は最初に僕が予定していたよりもかなり長くなってしまったのですが,補足をしておきました。というのは,価値観という観点からみた場合には,排尿という運動自体は,一般的にはあまりよいイメージをもたれているものとは僕には思えなかったので,こうしたことを例として考察を進めた以上は,そのあたりのことをスピノザの哲学に照らし合わせて考えておく必要があると思えたからです。