スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

続・ルールの公理系&第三部定理二証明

2008-08-28 21:18:25 | 哲学
 一口にルールの公理系といっても,競技によっては,ごく簡単な公理系から成立するものもあれば,かなり複雑な公理系によって成立しているものもあるわけです。
 僕はスポーツの場合には,公理系が単純なものを好む傾向があります。オリンピックでいうと陸上のトラック競技や競泳というのがこれにあたり,北京五輪でも僕のテレビ観戦の中心はこれらの競技でした。
 シンプルな公理系の競技の利点は,勝敗が明確であること,競技の進捗状況が分かりやすいこと,競技進行の途中での各競技者の有利不利が分かりやすいということなどがあげられるでしょう。つまり公理系がシンプルであれば,観戦していてそれだけ分かりやすいということになります。また,これは僕の仮説というかあてずっぽうに近いですが,哲学においてスピノザの哲学を好むような人は単純な公理系の競技を好む傾向が強いのではないかと思います。
 しかし,公理系が単純だと,相手関係とは別に,ルールの公理系そのものから生じるような戦術や戦略といった要素は少なくなります。実際,単純な公理系の陸上の100メートル競走と複雑な公理系のアメリカンフットボールとを比較すれば,戦術や戦略が勝敗に影響する度合がどちらが大きいかは,いわずもがなではないでしょうか。だから競技の観戦において,そうした戦略や戦術を楽しみたいという人にとっては,シンプルな公理系から成立する競技は,いささか物足りなく思えるという面があると思います。
 単純な公理系には単純な公理系の,複雑な公理系には複雑な公理系の,それぞれ長所と短所があるわけです。各人は自分が最も面白いと思えるような競技を観戦するのがベストであるということが,このことから帰結するのではないかと思います。

 明日は竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局です。対戦成績には差があり,羽生善治名人が12勝,木村一基八段が3勝です。

 これで第三部定理二を証明する条件が整いました。気をつけるべきことはただひとつ,人間の精神というのが思惟の様態であるのに対し,人間の身体というのは延長の様態,物体であるということだけです。
 第二部定理六が証明したことは,様態の原因は,それが様態となっている属性によって考えられる限りでの神であって,それ以外の属性によって考えられる場合にはそうではないということでした。よって,思惟の様態の原因は思惟の属性によって考えられる限りでの神であり,延長の属性によって考えられる限りでの神ではありません。逆に,ある延長の様態の原因というのは,延長の属性によって考えられる限りでの神なのであって,思惟の属性によって考えられる限りでの神ではありません。いい換えれば,ある思惟の様態が何らかの思惟作用をなす場合に,延長の属性によって考えられる限りでの神はその原因であるということがありません。逆に,ある延長の様態が何らかの作用,すなわち運動ないし静止をなす場合には,思惟の属性によって考えられる限りでの神はこの作用の原因とはなり得ないのです。
 冒頭に気をつけるべきこととしていったように,人間の精神は思惟の様態であり,人間の身体は延長の様態です。だから人間の精神がある思惟作用をなすときの原因がその人間の身体であるということはないですし,人間の身体がある運動をなす場合に,この運動の原因がこの人間の精神であるということもないのです。つまり人間の身体は自分の精神をある思惟作用に決定することができませんし,人間の精神が自分の身体をある運動に決定するということもできないということになります。
コメント
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