浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

終わりの始まり、そして最後の努力

2009-09-11 23:13:35 | 
「ローマ人の物語」という本のシリーズは以前、単行本で毎年1冊出てた。

そのときも「あー1度読んでみたいなぁ」と思ってたんだけど単行本だと高いわ場所とるわでちょっと敬遠してたんだよね。
その後、文庫版が出て僕がはまりにはまった、というのは皆さんご存知のとおり。

文庫版を僕はおととしくらいから読み始めてます。

その時だと既刊本がどどっと7巻(文庫本になると分冊になるから20冊)あってちぎっては投げちぎっては投げ、違う、読んでは買い読んでは買い、、、順番が違うか、買っては読み買っては読み、はいどうでもいいですね、まぁそういう感じだったけど、それ以降は毎年1巻ずつ(文庫換算でいうと大体3冊)なんだよね。

発刊されるのはだいたい9月。

「ああ、今年も夏が終わるなぁ」なんてふと思っていたら本屋に並んでる、という感じだね。

今年も発売されました。



「ローマ人の物語」にはそれぞれ副題がついていてたとえば「ハンニバル戦記」「ユリウス・カエサル ルビコン以前」「パクス・ロマーナ」とかって感じだけど、今回はもうせつないね、「最後の努力」

ロムルスが建国しハンニバルを追討しカエサルがグランドデザインを描き、そしてアウグストゥスが磨いたかっての大ローマ帝国からは考えられない言葉。

そうか、「最後の努力」か。

この二つ前から淋しかった。「終わりの始まり」、「迷走する帝国」だもの。

流れで言うと、アウグストゥスが死んでティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ。ネロが自殺して、その後「四皇帝の一年」という混乱があり、そこから何とか盛り返し「五賢帝」と呼ばれる5人の皇帝がローマ帝国の領土を最大にするんだけど、五賢帝の最後の一人、マルクス・アウレリウスの時代から「終わりが始まって」いた。
その後、帝国は迷走し、ディオクレティアヌスが「四頭政(テトラルキア)」を始めいったんは盛り返すけど、それは「最後の努力」だった。

というのが流れ。

このあたりを読んでいると「あああ、もうどうしようもないよ~」とか「そりゃもう無理だろ~」と思う。

領土の拡大による防衛線の薄化、それに対抗するための軍備増強、その結果として増税…。以前は、「税収の範囲内で帝国を維持する」状態だったのに、今となっては「帝国を維持するために税率を上げる」という状態。

こりゃもう「帝国」という形を捨てて、以前のような原始共産制に戻って、みんな自給自足で生きていこうよ、ってことしか解決策がないような気がしてくる。

(なんつーか正直僕は現代日本にもそう思っているけどね。)

そんなことを言ってもどうしようも無いのは分かるけど、「ああ、もしここにカエサルが居れば」とか思うね。もちろん「ああ、ハンニバルがいれば…アウグストゥスがいれば…せめてティベリウスでも…」とも思う。

色々思うんだけど、ひとつ明らかに思うのは「世襲っていうシステムってダメなんちゃう?」ということ。

だってさ、「五賢帝」って言われた人たちのうち最初の四人は実子が居なかったんで優秀な人間を養子にして皇帝を継がせたんだよね。
かたや五賢帝の最後の一人「哲学皇帝」と言われたマルクス・アウレリウスは当人は大変優秀ながら、継がせた実子コンモドゥス(映画『グラディエーター』の皇帝は彼がモデルだそうです)があんまりにもあんまりだったので「帝国が迷走」しはじめるわけで。

「四頭政(テトラルキア)」だって第一次こそ、東西それぞれに正帝(アウグストゥス)、副帝(カエサル)の計4人をおいてローマを平定してたけど、第二次になったら血縁関係でもめて計6人という訳わかんないことになるしね。

古今東西、骨肉の争いってのは難しいね。

ローマ帝国も近隣に蛮族が居てその蛮族たちと戦って平定させてたときは良かったんだよ。彼らに勝てば領土と戦利品が手に入る。軍備のための税収はもちろん必要だけどそれに見合った経済的効果があった。
でも、時代が変わってしまうとね。

そういうのって現代日本、いや現代社会についても考えさせられる。



しかしさぁ「終わりの始まり、そして最後の努力」って恋愛の終焉に当てはめるとすごーく身につまされる一節だよね。

「ああ、あれが終わりの始まりだったなぁ。それであれは結局、最後の努力だったよなぁ」とかって思うことないっすかないっすかそうですか。

ドッピオなら「わっか~る」って言ってくれるはず。