今から21年前の8月5日、正確には4日の晩から5日の未明にかけて、関東地方を襲った大型台風10号によって、私の実家のある町は水害に遭い、陸の孤島となりました。
台風4号と5号が続けて九州地方を直撃したニュースが流れるたびに、21年前の水害の時のことが鮮明に甦り、私は復旧に明け暮れたあのつらい夏を思い出しました。そして、九州と四国にいる友人に安否を確かめるメールを送ったりしながら、水害の体験談と共に、私のルネ・コレクションのことをブログに書こうと思いました。
私は過去ログ「息子ルネ・ファン化計画」で、私が死んだ時にルネ・コレクションをどうしたらよいかを冗談を交えながら書きましたが、実はそれ以前に、私のルネ・コレクションは深刻な存続の危機にさらされていたのです。幸いにも、水害に遭いながら無事に危機を乗り越えられたそれらは、現在当ブログの資料として公開されています。そしてこの夏からは、画像もアップしていく計画を進めています。
実家のある町が台風による水害に遭った年、私は同県のA市に仕事の関係でアパートを借りて住んでいたので、直接水害の恐怖を味わったわけではありません。しかし、死者も出たこの水害は、周囲の町にも大きな被害をもたらし、深い爪痕を残しました。
町は台風による河川の増水で水害になったのではなく、土砂崩れで流された竹藪が橋の欄干に引っかかって川をせき止め、S川の水が溢れて一気に大通りを走ったため、住民の避難が遅れました。そして現在でも、この町の電信柱にはその時の水位が印されています。
8月5日の朝6時、当時勤務していた職場の同僚から電話が入り、「M町が大変だから、今すぐニュースを見なさい。」と言われ、テレビをつけて驚きました。テレビ画面には、実家から数百メートルしか離れていないT字路の店の一階部分全部が、茶色の水に水没している映像が目に飛び込んできました。町の大通りの突き当たりにあるその店の周りは、救命ボートが浮かんでいます。すぐに実家に電話をかけましたが話し中のコール音。心配した叔母が電話をしているのだろうと思っていましたが、実はその時にはもう電話が通じない状態になっていたのでした。
電話が通じないため、テレビの前述の店の映像で、水が引いたのを確認してすぐに車で実家に向かいました。普通に行けば2時間半で着く道程。途中、用水路の水があふれて道路を流れている所を何カ所も越えて走りました。一度は前を走っている車が水の中で止まってしまい、よけられない私の車ももう駄目だと思った瞬間、周りで待機していた人達が前の車をどけてくれてどうにかセーフ。そして、実家まであと30分という所では、何十メートルにも渡って水が道路にあふれており、半数以上の車がUターン。私は決死の思いで水の中、車を走らせました。スピード・メーターは100キロ近くを示しているのに、実際の速度は20キロから30キロ程度。やっと水を抜けた時、ブレーキ・オイルに水が入った車はブレーキが効きません。エンジンを思いっきり吹かしたところ、かろうじてブレーキが効くようになりました。そして、実家まであと5分で着く坂道にさしかかると、海に向かう車が水害の様子を見るために通って大渋滞。実家に着くのに小一時間かかってしまいました。
実家に着くと、実家は床上40㎝まで水が乗り、水が引いた時に残された汚泥で家中ひどい状態でした。当時実家は平屋で、水が乗った時も、大切なものを高い所に乗せるのが精一杯でした。とにかく夜までに寝られるところを確保しなければなりません。畳はもうどうにもなりませんから、床の泥を拭き取り、泥で汚れたものを片付けました。夕方へとへとの私たちの家に、トイレのくみ取りに駆けつけたのは、他でもないA市のくみ取り車でした。そして、消毒液のタンクを背負い、防毒マスクのようなものをつけ、宇宙服のような完全防備の格好をした保健所関係の人が土足で家に上がってきて、家の中に消毒液をまいた時は、この世の終わりのような気持ちになりました。
そんな中、本当に幸運にも、私のルネ・コレクションは、皆高い位置に保管されていたため難を逃れました。しかし一歩間違えば、水の力で棚がひっくり返り、完全にアウトだったのです。たまたま私の部屋はカーペットが敷いてあったため、カーペットごと浮き、さらに畳が持ち上がったため、水に濡れる場所も少なくて済んだということでした。本当に何が幸いするか分かりません。しかし、母の手製の中学、高校の制服は汚泥にまみれ、匂いもひどく、泣く泣く処分しましたし、ベッドの下に保管していた雑誌等のコレクションも全滅でした。ベッドの壁に貼っていたルネのポスターも片付けの時、危うく汚されてしまう所でした。
ルネのコレクションのことを書いていると、そんなにひどい被害はなかったのだろうと誤解されそうですが、電話は通じず、電気と水道が止まり(ガスは全戸がプロパンガス)、平屋で庭が低かった実家は流れ込んだ汚泥とゴミが残され、家具全部が水につかっていて、畳も全部取り外し、消毒液で汚泥につかった部分を何回も何回も毎日ふいて、使えなくなったものや流れ込んで残されたゴミを片付けて・・・・。実家は大通りから少し入った所にあったため、広報車の配給等のお知らせも聞こえませんでした。また、被災地にいながら、停電のためニュースが見られず、電気が復旧してもテレビなど見ている暇もなく、町がどのようになっていて、どのように報道されていたのかさえ知りませんでした。町はY山系の小さな盆地にあるため、一時生活のパイプラインが寸断され、町を通る国道も通行規制が敷かれました。毎日自衛隊や取材のヘリコプターが上空を飛び交い、道路はゴミと泥で埋まりました。家の骨組みが残っただけで家の中の全てのものを流された家や、突然の大水に逃げられず、暴風雨の中家の屋根の上で一夜を過ごしたという家も有りました。うっかり車を走らせようものなら、泥に混じった釘でタイヤがパンクしたり、町に赤痢発生や破傷風(M町は破傷風菌の汚染地帯です。昔、母校の今は無い農業科の生徒に死者が出ています。)の感染者が出たという噂が広まり、畳も今年中に全戸に入らないだろうという話が出て、「もう、M町は終わりだ。」という人も出るくらいに町自体がひどい被害状態でした。もともと過疎化が進んでいた町は、被災したことで大打撃を受け、町が衰退の一途をたどるかとも思われましたが、こうなった時の人の力はすごいですね。みるみる復興し、現在では国際大会が行われるレース場のある町となっています。
今回は、ルネにはあまり関係がない私の水害体験記になってしまいましたが、この記事を書くことで、地震や台風による被災地の皆様に、エールを送りたいと思います。
台風4号と5号が続けて九州地方を直撃したニュースが流れるたびに、21年前の水害の時のことが鮮明に甦り、私は復旧に明け暮れたあのつらい夏を思い出しました。そして、九州と四国にいる友人に安否を確かめるメールを送ったりしながら、水害の体験談と共に、私のルネ・コレクションのことをブログに書こうと思いました。
私は過去ログ「息子ルネ・ファン化計画」で、私が死んだ時にルネ・コレクションをどうしたらよいかを冗談を交えながら書きましたが、実はそれ以前に、私のルネ・コレクションは深刻な存続の危機にさらされていたのです。幸いにも、水害に遭いながら無事に危機を乗り越えられたそれらは、現在当ブログの資料として公開されています。そしてこの夏からは、画像もアップしていく計画を進めています。
実家のある町が台風による水害に遭った年、私は同県のA市に仕事の関係でアパートを借りて住んでいたので、直接水害の恐怖を味わったわけではありません。しかし、死者も出たこの水害は、周囲の町にも大きな被害をもたらし、深い爪痕を残しました。
町は台風による河川の増水で水害になったのではなく、土砂崩れで流された竹藪が橋の欄干に引っかかって川をせき止め、S川の水が溢れて一気に大通りを走ったため、住民の避難が遅れました。そして現在でも、この町の電信柱にはその時の水位が印されています。
8月5日の朝6時、当時勤務していた職場の同僚から電話が入り、「M町が大変だから、今すぐニュースを見なさい。」と言われ、テレビをつけて驚きました。テレビ画面には、実家から数百メートルしか離れていないT字路の店の一階部分全部が、茶色の水に水没している映像が目に飛び込んできました。町の大通りの突き当たりにあるその店の周りは、救命ボートが浮かんでいます。すぐに実家に電話をかけましたが話し中のコール音。心配した叔母が電話をしているのだろうと思っていましたが、実はその時にはもう電話が通じない状態になっていたのでした。
電話が通じないため、テレビの前述の店の映像で、水が引いたのを確認してすぐに車で実家に向かいました。普通に行けば2時間半で着く道程。途中、用水路の水があふれて道路を流れている所を何カ所も越えて走りました。一度は前を走っている車が水の中で止まってしまい、よけられない私の車ももう駄目だと思った瞬間、周りで待機していた人達が前の車をどけてくれてどうにかセーフ。そして、実家まであと30分という所では、何十メートルにも渡って水が道路にあふれており、半数以上の車がUターン。私は決死の思いで水の中、車を走らせました。スピード・メーターは100キロ近くを示しているのに、実際の速度は20キロから30キロ程度。やっと水を抜けた時、ブレーキ・オイルに水が入った車はブレーキが効きません。エンジンを思いっきり吹かしたところ、かろうじてブレーキが効くようになりました。そして、実家まであと5分で着く坂道にさしかかると、海に向かう車が水害の様子を見るために通って大渋滞。実家に着くのに小一時間かかってしまいました。
実家に着くと、実家は床上40㎝まで水が乗り、水が引いた時に残された汚泥で家中ひどい状態でした。当時実家は平屋で、水が乗った時も、大切なものを高い所に乗せるのが精一杯でした。とにかく夜までに寝られるところを確保しなければなりません。畳はもうどうにもなりませんから、床の泥を拭き取り、泥で汚れたものを片付けました。夕方へとへとの私たちの家に、トイレのくみ取りに駆けつけたのは、他でもないA市のくみ取り車でした。そして、消毒液のタンクを背負い、防毒マスクのようなものをつけ、宇宙服のような完全防備の格好をした保健所関係の人が土足で家に上がってきて、家の中に消毒液をまいた時は、この世の終わりのような気持ちになりました。
そんな中、本当に幸運にも、私のルネ・コレクションは、皆高い位置に保管されていたため難を逃れました。しかし一歩間違えば、水の力で棚がひっくり返り、完全にアウトだったのです。たまたま私の部屋はカーペットが敷いてあったため、カーペットごと浮き、さらに畳が持ち上がったため、水に濡れる場所も少なくて済んだということでした。本当に何が幸いするか分かりません。しかし、母の手製の中学、高校の制服は汚泥にまみれ、匂いもひどく、泣く泣く処分しましたし、ベッドの下に保管していた雑誌等のコレクションも全滅でした。ベッドの壁に貼っていたルネのポスターも片付けの時、危うく汚されてしまう所でした。
ルネのコレクションのことを書いていると、そんなにひどい被害はなかったのだろうと誤解されそうですが、電話は通じず、電気と水道が止まり(ガスは全戸がプロパンガス)、平屋で庭が低かった実家は流れ込んだ汚泥とゴミが残され、家具全部が水につかっていて、畳も全部取り外し、消毒液で汚泥につかった部分を何回も何回も毎日ふいて、使えなくなったものや流れ込んで残されたゴミを片付けて・・・・。実家は大通りから少し入った所にあったため、広報車の配給等のお知らせも聞こえませんでした。また、被災地にいながら、停電のためニュースが見られず、電気が復旧してもテレビなど見ている暇もなく、町がどのようになっていて、どのように報道されていたのかさえ知りませんでした。町はY山系の小さな盆地にあるため、一時生活のパイプラインが寸断され、町を通る国道も通行規制が敷かれました。毎日自衛隊や取材のヘリコプターが上空を飛び交い、道路はゴミと泥で埋まりました。家の骨組みが残っただけで家の中の全てのものを流された家や、突然の大水に逃げられず、暴風雨の中家の屋根の上で一夜を過ごしたという家も有りました。うっかり車を走らせようものなら、泥に混じった釘でタイヤがパンクしたり、町に赤痢発生や破傷風(M町は破傷風菌の汚染地帯です。昔、母校の今は無い農業科の生徒に死者が出ています。)の感染者が出たという噂が広まり、畳も今年中に全戸に入らないだろうという話が出て、「もう、M町は終わりだ。」という人も出るくらいに町自体がひどい被害状態でした。もともと過疎化が進んでいた町は、被災したことで大打撃を受け、町が衰退の一途をたどるかとも思われましたが、こうなった時の人の力はすごいですね。みるみる復興し、現在では国際大会が行われるレース場のある町となっています。
今回は、ルネにはあまり関係がない私の水害体験記になってしまいましたが、この記事を書くことで、地震や台風による被災地の皆様に、エールを送りたいと思います。