柴田典子の終活ブログ「エンディングノート知恵袋」

エンディングデザインコンサルタント柴田典子のブログ。
葬儀に関わらず「賢い老い支度」として終活全般のお話もしています。

思わず振り返った、ラジオです

2017年07月20日 | 昔むかし
街を歩いていたら、だジオ放送が流れてきました。

普通の街並みなので、あれ!どこから聞こえるの?

と、周りを見てみたら

商店の郵便受けの上にラジオがありました。

そのラジオの形があまりに変わっていたので

思わず、後戻りして

近くによってパチリ!


本物のレトロでしょうか?

最近はレトロ風っていうのもありますから

気になる風景でした、

小学校のクラス会が健在

2012年06月13日 | 昔むかし
先週、小学校時代のクラス会がありました

へ―、珍しいですね!、とよく言われます

私達はベビーブームといわれた世代ですが

稀な事に、小学校時代は2クラスしかなく

1年生~6年生まで、ずっと同じクラスで過ごしました

今、話題のスカイツリーにほど近い、浅草駒形という下町です

下町と言っても、江戸通りという大きな国道に面していて

私の子供の頃から6車線の大通りでした

その真ん中を都電が走っていました

クラスも45人位だった?と思います

その当時、この小学校は中学受験が盛んで

確か、クラスの半数が私立中学に進学しています

その当時は塾なんてなくて、唯一、四谷大塚進学教室

というのが有り、日曜日だけ中学受験の模試があり

全国ランキングが毎週発表されてました

多分、大手の塾の始まりだったと思います

受験する子は、普段は家庭教師について勉強し

日曜だけ、そこに模試を受けに行くんです

私も中学受験組でした

受験の話をしだすと、壮絶な私の小学時代が見えてくるので

又に機会話します

この時期に、気の強さが養われたので・・・


ところでクラス会ですが2年に1回のペースで開かれます

地元でお寿司屋さんをしている級友を中心に

みんなにこまめに案内を送ってくれる、役所勤めの
万年幹事がいて、

その二人をサポートする友人が周りに何人かいます

そのおかげで、いまだにクラス会ができています

この年になると、仲の良い悪いも関係なく

ただ懐かしい関係になれます


あ、そうだ!私も高校の万年幹事でした

いつやったけ?私が開くクラス会は・・・・

こまめな幹事じゃないと、級友が救われませんね

そろそろ、クラス会しないと

年は取るばかりです

昔から大げさでした。

2010年08月30日 | 昔むかし
このところ、兄弟で毎日のように両親の様子をやり取りしています。

その中で、父の若いころの話がよく出ます。

昔から、病気をすると大騒ぎをする人でした。

学校から帰ってくると珍しく父が寝ています。
「どうしたの?」と聞くと
「皆を集めなさい」というのです。

兄弟3人が集まると、枕元に並べて
「お父さんは病気になって大変だから、良く看病するように!
親は大切にしないといけない。もう長い事はない!」と
今にも死にそうに言いだします。

最初の頃は心配しましたが
何度も繰り返されると「またか」という事になります。

でもうちの兄弟は子供のころから気を使う方だったので
「大変だね」「大丈夫」と一応大変な状況に合わせていました。
周りに人がいないと嫌だし、思い通りに動かないと機嫌が悪くなります。

いつも1日くらいで治る風邪でしたけど。
毎回死にそうなふりをしてました。

私たちが小学生の頃の話です。
もしかして、私の気遣いはこの頃に育まれたのかも・・・

デパート屋上の遊園地

2010年05月30日 | 昔むかし
浅草の松屋(デパート)の屋上に遊園地があります。

今日でそこが閉園したそうです。

私も始めて知りました。
そこが日本で最初のデパート屋上の遊園地だったそうです。

昭和6年に出来たらしいので
私が生まれるずっと前からあったんですね。

私たち兄弟もよくその屋上で遊びました。
当時は小動物もいたし、釣堀も有りました。

その頃大きなビルは余り無く
屋上に行くと太陽が近くて、ポカポカしていたイメージが残っています。

乗り物だけでなくゲームもあって
大きな絵に描いた鬼が7メートル位、先にあって
お腹に丸い的が書いてあり
そこにボールをぶつけるゲームがあったんです。

これを知っている人は多いと思うけど
タマが当たると
『ウォー』と声を上げて両腕が上がった?記憶があります。

デパートへの買い物は、楽しみの一つで
家から歩いて15分くらいのデパートに行くのに
親子共々、「よそ行き」の洋服をきて出かけてました。

その後、うちの子供たちが
おじいちゃん、おばちゃんに連れられて何度も遊びに行ってます。
レトロな遊園地で、子供たちも気に入っていたようです。

あの頃何処のデパートにも屋上に遊園地があって
確か?日本橋の三越だったと思うのですが
屋上にゾウが飼われていました。
頭にリボンをつけてたような?気がするけどメスだったのかな・・

細かい事は忘れているのに、遊園地の光景はところどころ覚えています。

最近デパートの屋上に行くことがなくなりましたが
今はどうなっているのでしょうか?
今度行って見ようかしら。




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段ボール屋の箱入り娘

2010年03月02日 | 昔むかし
段ボール屋さんの典子ちゃんは箱入り娘でした。
そういえば、小さい頃段ボール箱の中に座らされて撮った写真が有ります。

父方のほうでは初孫で、可愛がってもらいました。
この写真は7歳の時で日本舞踊の初舞台の写真です。

父は子供にとても大きな夢を抱いている人で自分の思い通りに育てたかったようです。

私のうろ覚えの記憶では、ある日突然家に着物を着た男の人が来て
部屋に呼ばれました。
その人は踊りの先生で、父の知人の家に出稽古に来ていた方です
そこのお嬢さんがとても踊りが上手だそうで
父の頭の中にはすでに私が踊っている姿があったのです。

その部屋で、凄いことが起きました。
いきなりレコードが流れて先生に習って父が踊りだしたのです。
確か洋服のまま、なよなよと踊っていたと思います。
踊りなどしたこと無い人がです。
そして私に
「とても楽しいからお前も一緒に日本舞踊をやってごらん」と言ったのです。

見ていて父より私のほうがきっと上手に踊れると思い、まんまとその罠に
かかってしまいました。
私はてっきり、父と一緒にお稽古をするものと思い込んでいましたが
翌週から先生が来ても私1人がお稽古をさせられて
騙された!とわかりました。

でも2年くらいで踊りはやめてしまいます。
そうです。
典子ちゃんはとても飽きっぽい子だったのです。

私、長女の典子です

2010年02月08日 | 昔むかし
この仕事をしていると、心地よい自分がいます。
葬儀の仕事が好き?という訳じゃないんです。
目の前にいる人に何をしてあげられるか?を考えるのが好きなんです。

その原点は私の育った環境に有ると思います。
私の生家は商売をしていました。
両親や大勢の大人が働く姿を見て育ちます。
父は仕事中はとても怖い人。
子供がウロウロしていると怒られます。
でも、仕事が終わると面白い人なんです。
従業員も一緒に食事をしますが、よく涙が出るほど笑わされました。

取引先を接待するのはいつも家です。
お酒が苦手な父でしたので、家に招いて談笑します。
その場には私達家族も一緒です。
決して子供を排除しません。
そのうちに相手のご家族も一緒になってお付合いをします。
ですからとても深いお付合いのご家族がたくさんいました。

お客様が見えると必ず子供たちにお茶を出させて挨拶をさせます。
「いらっしゃいませ。長女の典子です」と教えられました。
するとお客様は必ず褒めてくれます。
それが嬉しくて、お茶を出すのが好きになりました。

「喜んで頂きたい」「私も喜びたい」の原点はやはりここですね。

故郷はアスファルト

2010年02月01日 | 昔むかし
私の生まれは東京の下町。
私の家の前は大きな通りで、路面電車が走っていました。
「都電」とか「チンチン電車」なんて言ってました。
片面3車線の大きな通りを車と一緒に馬が荷車を引いて通ったり
警察の騎馬隊みたいな人たちが馬で通ったのを何度かみましたけど
その後に馬糞が落ちてましたよ。
40年前に路面電車は廃止され、今では荒川線という路線だけが唯一都内に残っています。

私の記憶ではその通りはすでにアスファルトで、小さい頃から土に馴染んでいません。
だから、苦手なんですよ、虫とか泥んこが。
そうそう、小学校の校庭もアスファルトでした。
昭和30年代の話です。

裏通りに行くと小さな路地があって、そこだけ土の道で
垣根の根元に鳳仙花とかが咲いていました。

私、その花が欲しくってひと目を盗んで1本、抜いて持ってきたことがあります。
そして、家と隣(銀行でした)の間の隙間に土を盛って、その鳳仙花を植えました。
もちろん土と言っても小さい洗面器一杯くらいの量でその下はアスファルト。
育つ訳無いのに、そういうことが分からなくって、花が増えると信じてましたね

すぐに母に見つかって怒られましたけど、小学1年くらいの話しです。

私の家は商売をしていました。
ダンボールを作って売っていたのですが、表通りに私の家族が棲む家と店があり
裏通りに晩ボールを作る工場があり、その隣には祖父母一家が暮していて
毎日「おじいちゃーん、おばあちゃーん」と遊びに行きました。
父の一番下の妹は、私と七つ違いで、その叔母とはまるで姉妹みたいに育ちました。

ちょうど映画の「夕陽丘3丁目」そのもの。

古いアルバム見てて、思い出しました。

子供たちのためにも
少し書き残しておこうかなー。