さうぽんの拳闘見物日記

ボクシング生観戦、テレビ観戦、ビデオ鑑賞
その他つれづれなる(そんなたいそうなもんかえ)
拳闘見聞の日々。

内輪の論理に閉ざされた「世界」の果てに 井岡防衛、宮崎惨敗

2014-01-02 06:55:44 | 井岡一翔

大晦日、大阪の試合について。


初回、ポイントはフェリックス・アルバラードに振るべき、と見えました。
右のヒット数が多く、井岡一翔に比べてよりウェイトが乗ったパンチを打てていました。
非常に体躯に恵まれていて、ぱっと見た目はクリサント・エスパーニャ風。
あのメルドリック・テイラーの機動力を、正確な強打による「突き放し」で削り、
最後は強烈なノックアウトで沈めた一戦が印象深い強豪です。

しかし、見た目はそうでも、中身は全然違いました。
やや優勢と見えた初回からです。

まず何よりも思ったのが「リーチの無駄遣い」。
普通に離れて立ち、ジャブを突けば相手が入ってこれなさそうなものですけど、それをしない。
つまりは長い距離でジャブを当てる技量がない、又は普段からそういうことをやっていないのでしょう。
距離の長短を使い分けて試合を作れない、ただ打っていった結果、手応えの有無で次の選択が決まる。
戦績やランクには相応しくない、そういうレベルの選手ということなのでしょう。

対する井岡一翔は、初回こそ失点したかに見えましたが、
距離の長さを見た上で、二回目からはがらりと闘い方を変えました。

相手の攻防の繋ぎ目にある穴を、高い頻度で突きたいと考えたか、
距離を詰めて肩で押し合う距離に立ち、6~7割程度の力で
振り幅が小さく、正確なショートを当てて行くという流れ。

強打のアルバラード相手に、危険な選択でもありましたが、
上体を下げてもバランスは崩さず、ダッキングやサイドステップを駆使して
アルバラードのヒットを最小限に抑え、逆にボディ攻撃でダメージを与え続けました。

終盤、手数が減った回のいくつかも、要所で好打を決めていましたし、
終始自分のペースを崩さずに打ち勝って、数字の大小はあれど、クリアな勝利に変わりなかったでしょう。
前評判ほどでないにせよ、もし井岡に、緩みや選択ミスが多少でもあったなら、
もっと苦しめられたかもしれない相手に、またも高レベルの堅実さを見せた勝利でした。


普通に見て、井岡の充実ぶりを見られた試合でした。
一発強打こそないものの、攻防共にレベルが高く、常に良いコンディションを作れ、
闘い方もよく練られていて、集中力も高い。
井岡一翔はライトフライ級復帰4戦を、全てWBAランキング10位以内の相手と闘っていますが、
その試合内容はまたしても、充分に合格点と言えるものでした。

しかし、そういう井岡一翔のボクサーとしての充実ぶりとはまた別に...という話は
過去にもさんざん書きましたので、改めて繰り返したくはないのですが、
試合翌日の会見で、陣営は「他団体」との統一戦や、フライ級転向を語ったそうです。

「他団体」って...といちいち突っ込むのも疲れてきますが、この厚顔無恥というか、無神経さというのは、
もはやメイウェザー並の難攻不落とでも言うべきか(呆)。
ボクシング界におけるジャーナリズムの不在が産み落とした鬼子、という観点のみで言えば
この素晴らしい井岡一翔というボクサーが、かなりの部分、あのヤカラ一家と重なって見えます。

今回の試合、上記のとおり、なかなかの好試合でした。
なのに、それを見た後、それでも心の中に引っかかりを感じねばならない、
そういう井岡一翔の現状を、改めて残念に思います。

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次に、TBSについて。

今回も、実況解説ともに、ローマン・ゴンサレスの「ロ」の字も出さない徹底ぶり...と思っていたら
番組のどこかで、「前王者」という表現があったそうですね。

もしそれが本当なら、まさしく噴飯ものです。
単に、事実に反します。嘘でも報道機関の端くれでしょうに。
よほど恥知らずなのか、無能なのか、それともボクシングというものを馬鹿にしているのか。


そして番組が録画、或いはディレイ放送であったにも関わらず、試合終了、判定発表が流れた時間が
9時半を過ぎたことにも驚かされました。よくもまあこんな無神経な真似が出来るものだと。

TV局というものは、基本、単に視聴率イコール広告収入が欲しいだけの企業に過ぎず、
報道機関として公に存在することの意味など、もはや何も考えていないことも承知しています。
今回の中継にしたところで、世に言う「スポーツバラエティ」の一部であり、
別段、ボクシングファンという少数民族に対する気配りなど不要、ということなのでしょう。

しかし、この番組を見る者の中で、ボクシングの試合を(生中継でなくとも、結果知らずに)見たい、
という層が一定数存在するのも事実です。そして当然、9時半開始のTV東京の録画放送と被ることくらい
TBSの人間も承知していたでしょう。しかし、彼らはそれを平然と無視しました。
それも苦心惨憺の末に生中継をしたのではなく、ディレイ放送なのに、それでも。

普段、この局の番組を見ることは皆無なのですが、例えば他のスポーツや、報道や芸能番組でも、
その視聴者層に対して、こういう雑なやり方で番組を作っているんでしょうか?
それとも、他局の番組がどうであれ関係ない、とでもいうつもりなんでしょうか?

TBSを見るのも、TV東京を見るのも、同じ普通の国民です。
その国民が営む生活に、報道や娯楽を提供することで存在を許されているのがTV局でしょう。
そしてそれはTBS一局だけの話ではありません。
当然「他局」が存在し、その他局の存在もまた、TBSを同じ意義を持っています。
そして、その存在意義を無視することなど、誰にも許されません。
視聴率の競争は、あくまで、番組の内容によってのみ、なされるべきです。

人によっては小さな話かもしれません。まして昨今、ボクシングに対する社会の関心が低下する中、
ボクシングファンの意見など、取るに足らないものなのでしょう。それは充分に理解しています。
しかし、このような視聴者層を重複を無視した番組構成をやってのける様を見ると、
上記のような基本的な理解が、TBSの内部において、決定的に欠落しているのではないか、とも思うのです。

実際、宗教団体の信者の取り合いやあるまいし...。
本当に、信じられないレベルの無神経さです。考えるだけで気持ち悪くなってきます、もう。


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最後に、触れないわけにもいかないので、宮崎亮。


試合結果は現地観戦組から電話で知らされました。
こりゃ、放送されへんのかも、と思ったら録画が流れ、その様子が
想像以上に酷いものだったので、結果知って、映像見て、
一粒で二度悲しい、という、わけのわからん状態に陥ってしまいました。

前日計量の様子を報じた記事や写真を見ると、
どう見ても翌日にボクシングの公式試合を闘おうという人間の様には見えませんでした。
しかし試合は挙行され、ご覧の通り、でした。

足は動かず、リズムもなく、手数も出せず、たまに打ったら上体が前に伸びて、戻らない。
ファーラン・サックリリン(と表記するはずです、お父さんの現役時代はそうでした)ジュニアは
そのタイミングを捉えて、初回から宮崎の右のミスのあと左フックを決め、
3回、同じパンチから右をフォローして倒しました。
福地レフェリーのストップは、単に試合のダメージを見て、というのではなく、
明らかに、前日からのコンディション不良をも勘案した上でものでした。


ここでもまた、ボクシングそのものや、ボクサー自体を大事にせず、
ビジネス面「だけ」を優先した結果、全てのしわ寄せがボクサーに行く、という
日本のボクシング界が根源的に抱える卑しさ、貧しさを垣間見たような気がします。

宮崎本人の失態、であることはもちろんです。
本当に緻密な取材の末に書かれたかどうかは怪しい限りのスポーツ新聞報道ですが、
宮崎本人が節制出来ずに体重超過を招いた、という話が事実なら。

しかしそれとは別に、プロモートとマネージメントの権益を同時に保有する「ジム」側が
内実はどうであれ、まるで無責任な教師のような発言をするのは、どう見ても異常です。
叱責したければ内部でやればいい。選手の管理が出来なかった責任は、誰にあるのか。
考えるまでも無いことでしょう。

そして、このような状態の選手をリングに上げて、仮にも世界ランカーと闘わせた、
その判断の異常さもまた、こちらの理解を超えています。
おそらくビジネス上の問題だったのでしょう(そうでなく、心情的な話だったとしたら、また別の意味で怖いですが)。


宮崎亮がここ一年の間に闘った試合は、あらゆる意味で無理があり、
彼の心技体が、決定的に傷つけられたのではないか、という懸念が消えないものでした。
ようやく本来の階級に戻れたか、と思った最初の試合で起こった事態は、まさに惨劇です。

宮崎亮は、ろくに動かない身体で、相手の機先をダイレクトライトで打ち抜こうという、
狂気にも似た、一撃での「打倒」に執着して闘っていました。
誰の目にもそれは無理だ、と見えるにも関わらず。

彼の執着するものに対して、それは必ずしも妥当では無い、とは、他人ならばこそ
勝手に、無責任に、過去にあれこれ書いてきました。
同時に、異形の天才ともいうべき彼の闘いぶりに、蠱惑的な魅力を感じ、強く惹き付けられてもきました。

その彼が世界王座を獲り、TV中継にも登場するようになって、
でもそれを本心から喜べなかった3試合のあと、その喜びを陰らせていたものが、
一気に噴き出したかのような試合を見て、ただただ暗澹たる気分でいます。

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「試合の度に事件が起こる」とは、あのヤカラ一家の試合を評した言葉ですが、
社会的には事件じゃ無くても、ボクシングファンにとっては充分「事件」に相当する事態というなら
それはむしろ「TBS」関連の興行において、毎度繰り返されている、と言えるでしょう。

正当性のない王座に、逸材といえるボクサーを就かせて「世界戦」として興行し、放送する。
ジャーナリズムの怠慢に乗じ、その事実をいっさい報じず、興行側の良いなりの「喧伝」を重ね、
本来の王者についてはその存在を無視し、或いは隠蔽する。
他局の同競技との放送時間を、ディレイ放送なのに重複させる。
前日、「軽度の意識障害」に陥った人間を、公式試合のリングに上げた陣営が、惨敗を喫した選手を、他人のように批判する。

大晦日、大阪で起こった事態は、もし、ボクシングが広く社会に関心を持たれ、
ジャーナリズムやマスメディアがまともな態度でそれぞれの仕事に取り組んでいたなら、
どれひとつとして看過されず、問題視され、多大な批判がなされたであろう事例ばかりです。

しかしどれひとつとして、ファンの間ではともかく、そういうことにはなっていません。
上記の事例、ひとつひとつに内輪の論理が強固に存在し、それに業界もメディアも追随し、
その閉ざされた「世界」の中で、ことによると一部のファンまでが、納得を語っていたりもします。

その事実をもって、目先の利益だけを追いかけ、ボクシングそのものを大事にしない「業者」たちは
自らの正当性、或いは「仕方ない」という偽りの納得を、心中で支えているのでしょう。

その心根の貧しさは、いずれ、彼ら自身に跳ね返る...とは言い切れないのが悔しいところです。
しかし確実に、ボクシングそのものが傷つけられ、そしてすでに、ボクサーたちは様々な形で
その苦しみを引き受けさせられています。
その現実の前にファンは無力かもしれません。でも納得だけは絶対出来ません。

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新年早々、暗い記事になってしまいましたが、書かずにはおられませんでした。どうもすみません。

井岡一翔の今後が、より真っ当な評価を、天下晴れて得られるような方向に修正されることを。
宮崎亮の心身の傷が癒え、また元気な、闊達な、才気溢れる姿が見られることを。

素晴らしいボクサーたちに対しては、変わること無く、せめてもの希望を見たいと思っています。



コメント (8)
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