ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

テレビから

2007年11月15日 | テレビから
            小菊(雪景色)
           一番早く咲きました
          他の色はまだ蕾ですのに

頭の痒さに気が付けば、数えてみれば6日間も洗っていない。家のお風呂は寒いのでジムでサウナで温まってから洗おうと思っていた。でもどうにも我慢がならない、お風呂を湯気で少し温めておいて洗った。湯冷めしては大変と再び寝床に逆戻りした。

参院の外交防衛委員会、守屋氏の証人喚問を見ていた。何時も思うのだけれど、質問者同士横の繋がりはないのだろうか、時間がないと言いながら同じ質問をして、時間切れになる。テレビも入っているのだし、言葉は残っているのだから、別の切り口から突っ込めばいいのにとイライラしてしまう。

守屋氏の口から自分のしたことで防衛省は悪い所と思わないでと声を震わせ、少し涙ぐむ。今更何を・・・、騙されまいぞ!と思う。退職金は返すと言いましたね。直ったはずの病気を理由に早々と病院に逃げ込んだ久間氏も、そして額賀氏の名も接待席に居たといいましたね。でも自分の受けたゴルフ接待は友情であると言いましたね。何の下心もなく長年に亘り接待をするはずがありません。其れを堂々と繰り返し言うのは、どんな思惑があるのでしょうね。長時間にわたる質疑応答でしたが、何だかすっきりしない気持ちです。

日曜日の朝、田原総一郎のサンデープロジェクト。以前は楽しみで何時も見ていたんですが、何だか田原さんの物言いに違和感を感じるようになり、見る事を止めていました。でも田原さんが北朝鮮に行った報告があるというので見る気になりました。全く腹の立つ報告でした。

田原さんは何しに北朝鮮を訪問したんですか。おべっかを使う為ですか?
私だからここに行けるとか、私だからこの人が逢ってくれただとか、自分の宣伝ばかりして、対談はイライラするほど、下手に出て、ご機嫌を伺って、あんたにそんなことしてもらわなくっていいよ!と叫びたかった。

拉致問題について北朝鮮は3っの条件を出した。聞いてる私にすれば、そんな事は拉致されている人を帰してくれてから言うことでしょう!と言いたかった。だのに最後に田原さんは「解決するでしょう」と言うニュアンス。何?!日本政府に北朝鮮の要求を呑めと言うの? その上に呼ばなくともいいのに何処かにいる山崎拓さんまで呼び出して(他の場所からの映像)同意を求める。北朝鮮が山崎拓さんや田原さんを入れてくれるのは、あちらにとって心地よい言葉を言ってくれるからじゃないですか?其れを2人とものこのこと出て行って、「私だからこそ逢ってくれる」って錯覚してる。いい加減にしてよ!って言いたい。

横田滋さんも拉致被害者の代表を辞任される。大病をされたものね。皆皆年老いていく。どうにかならないのでしょうか?有本さんのお母さんは80歳を超えておられます。政府が関与してからでも5年がむなしく過ぎました。福田さんは解決すると言われました。信じていいのでしょうか?藁にも縋る思いで信じたいです。敵を作ることを好まないと言う福田さん、攻略の上手い北朝鮮に対してどんな秘策があるのでしょう。

有本さんに対しては我故郷神戸の人だが、拉致された時成人だったし、自己責任の部分もあると思うが、しかしめぐみちゃんは違う。でも娘を思う母親としての悲しみに変わりはないでしょう、1日も早く母の元に返してあげて!そして母娘の時間を持たせてあげたい。

これだけネットが世界を廻っているのに、めぐみちゃんは自分がこんなに待たれて居る事を知らないのだろうか・・・。
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モグラ女の逆襲

2007年11月14日 | 読みました
              コスモス
            (武庫川河川敷)
           これも昔からある花色
            牡丹色が美しい

         モグラ女の逆襲  残間里江子
         (知られざる団塊女の本音)

今年から団塊の世代が定年を迎えるという事で、世間話に良く登場します。今年還暦という事は私と同じ干支です。と言う事が俄に私の興味を引く事に成りました。団塊の世代=大勢と言う事ぐらいで、幾つぐらいの人たちを言うのか知らなかったのです。丁度私達の子供世代との中間点にいるんだな、という事がやっと解りました。

60歳定年制で男性の退職後の生き方について書かれることが多くなっていますが、その半数を占める女性については書かれることがありません。この本はそこを書いているらしいと興味を持ちました。もう一つ、残間さんをテレビで見た記憶があります。どんな人かは知らなかったが、名前が珍しいので覚えていました。確か美人だったような気もします。

『若者が流行化現象の主役と言われ、消費の主軸になったのが団塊の世代が若者だった時代だ。単に数が多かったからパワーになったのではなく、終戦と言う時代の節目の中にあって、日本が其れまでの社会システムをガラッと変えざるを得なかったと言う背景があったことも大きい』

『団塊の世代が結婚適齢期になった1971年~1974年までの4年間は、毎年200万人を越える出生数で、これを「団塊ジュニア」と呼ぶ、父親が団塊の世代か、母親が団塊の世代かで子供の年齢に差が出てくる。その世代では子供が小さい時にはその話題になるが、子供の進学問題が出る頃になると、子供の話題はぴたりとしなくくなる。学校のレベルもだが、私立か公立かで経済的な面まで表面化してくるから』

団塊の世代は特別なんだと書かれているが、全てに同じような傾向はあると思う、この世代まではお勤めは結婚して専業主婦になるまで腰掛、唯後半になって、仕事に目覚め、結婚よりも仕事を選ぶ人が増えてきたようだ。先日私が書いた「一流会社は自宅から通う女子社員を求めた」という事も記されていたので、やっぱりね~と思った。

読み進むうちに、懐かしい名前が登場した。残間さんのお手本は森瑤子さんだという。森さんが生きておられたら、団塊の世代の女の行き方も示してもらえただろうと残念がる。

森さんは私には別世界の人、小説にしても別世界、映像でしか知らないが、お洒落な素的な方だった。ただ年を取っていくだけと鬱々としていた時、版画家だった池田満寿夫さんが「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞した。作家じゃなくっても小説を書いてもいいんだわと思って、今の気持ちを書いてみようとペンを執ったのが「情事」ですばる文学賞の受賞だった。

確かあるはずと本棚を眺めると「情事」「嫉妬」など初期の作品が並んでいた。賞を取られた頃だけで、後の作品は余り読んでいないが、大好きな「風と共に去りぬ」の続編として公募から当選した「スカーレット」、これも長編だったが、その翻訳が森瑤子さんだったとはすっかり忘れていた。その翻訳から間もなく、53歳と言う若さで胃癌で亡くなられた時は本当に驚いた。

残間さんの本を読んで感じたのは、多少の変化や進歩に割合の違いがあっても、どの年代にも、と言うか、人間はそんなに変わるものではないと感じました。唯もう少し「思いやりの心」を持つ人の割合が増えればと、相手を思いやる事は自身も幸せになる事だと解って欲しいのです。

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トラックバックの良さ

2007年11月13日 | 今日この頃
             コスモス
           (武庫川河川敷)
          色とりどり、一重八重
         思いのままに咲いている

3日も寝ていますと、かえってあちこちが痛くなります。もう一日ぐらい寝ておいた方がいいかな~と思いつつ、今日から起きる事にしました。

寝床て読む読書は案外疲れます。普通もソファーに寝転んで読んではいるのですが、此方は丁度外光が本の表面に当りますから読みやすいのです。寝間の私の寝床は窓から離れた隅にあります。窓からの光線は朝の僅かの時間しか手元に来ません。電燈の光で読もうとするとどうも体の位置に無理が来る。思ったほど進みませんでした。もっと大きな字の本だと良かったのかも。

そんなわけでテレビを良く見ました。本当は見たいと思って録り溜めしたのが沢山あるのですが、其れは一階の居間のビデオに入っている為、テープに入れてないのでそのビデオでしか見れないという不便さがあります。便利なようで不便なビデオデッキです。

テレビのサーフィンをしていますと「ホームレス中学生の田村君」を良く見ました。見るというより、何故か主人がこの本の田村君を気に入って、田村君の出る番組を知らせてくれるんです。

この本は2ヶ月で110万部売り上げた、その速さではギネスものだそうです。今では110万部はとっくに突破しているんじゃないでしょうか。それに本は廻し読み、立ち読みと言う技があります。現に今、私の本も唱歌の学校で回覧中です。数知れない人が読む事でしょう。

どうして読まれるのか?読後に暖かい気持ちになるからです。読んでいるときは、短期間とは言え「ホームレス」胸が締め付けられるような気持ちです。でもその環境に負けなかった田村君、「ご飯を食べさせて欲しい」と親友に心を打ち明けた田村君、お母さんの事を考えれば悪の道には進めなかったと言う田村君。

親友のお母さんからのお手紙も届けられていました。「貴方が、目上の者に敬語もちゃんと使える、親にしかっりと躾けられた良い子だったから、他の人にも声をかけてお世話をした」と書かれていました。私も書きましたが、田村君が良い子でなかったら面倒は見てもらえなかったと思います。逆境にあっても、負ける事無く、人に心を開ける素直さを持つように育てられたお母さんが愛情一杯の人だったのでしょう。

田村君はこの親友のお母さんと、そのときお世話になった人たちに、本を持ってご挨拶に行ったそうです。そのことも手紙に書かれておりました。喉元過ぎれば・・・の言葉通り、世話に成ったことも忘れがちの人の多い中、たいしたものだと思いました。親友のお母さんが最後に「M-1グランプリー」を今度こそ取って下さいよ」と書かれていたのには苦笑していました。
☆ M-1グランプリーとは漫才界のNo.1になることです。

私の11月3日の「咲き乱れるコスモス」に「サイの目」さんから「トラックバック」がありました。時々「トラックバック」も頂いておりますが、本文とは全然関係のない、変なものも混じりますので、気が付き次第消去しております。しかし「サイの目」さんのは違いました。対岸の西宮の方らしいのですが(武庫川は北に向かって東側が尼崎市、西側が西宮市と、川の中央が市の境界のようです)西宮から見た光景や、コスモス畑に関して丁寧に書いておられます。私も読ませていただきました。お読みいただければ「尼崎のコスモス畑」が良く解ると思います。「トラックバック」の良さを知りました。有難うございました。

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風邪の神様横恋慕

2007年11月10日 | 今日この頃
              コスモス
            (武庫川河川敷)
           微妙に違うぼかしの幅
            夫々に可愛らしい

「横恋慕」もう「死語」でしょうか?風邪の神様のひつこさにまいりました。
朝から涎ならぬ、水洟たら~リ。仕方なく鼻炎の薬を飲みました。この薬は私にはきつく一錠飲むと、胃に堪えます。昼食後からは普通の薬に戻しました。

こんな時に限って、冷蔵庫は空っぽ。幸いにスーパーまで5分と掛かりません。急いで3日分の食料を買い込み、籠城に備えます。

2日程は「食ちゃ~寝」の日を過ごそうと思います。読書漬けで、ひたすら風邪の神様が諦めてくれるのを待ちたいと思います。

そんな訳で、11月11日~12日迄お休みいたします。
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身の程を知る

2007年11月09日 | 気にかかる
             コスモス
           (武庫川河川敷)
          なんと優しい色でしょう

近頃、唱歌の学校では、発声練習の前に、数分だが2人一組でマッサージをする。とても気持ちが良い。のりこ先生の生徒さんで、マッサージを職業の女性がいて、揉んで貰うのをを楽しみにしているのですって。整形でマッサージをしてもらうと保険が使えるのでお店(親の店)は大繁盛だそうだ。しかしマサージの資格を取りに学校に通うと月謝が高くて卒業までに2,000万円掛かるんですって。儲かるので直ぐ元は取れるとか。健康保険の赤字が増えたのはこのマッサージにあるというが・・・。

奈良からの帰り、近鉄電車で下校の高校生が乗っていました。有名な進学校がありますね、駅名が同じだったのでその高校生だと思うのですが学生服をきちんと着ていました。所が、ブレザーでカッター、ネクタイの男女の生徒きちんとしている子も居るのですが、その一方スカート丈の極端に短いか長い、髪形今の流行の髪の毛を漫画チックにぴんぴん立てている男の子、女の子は薄~くメッシュを入れて、頭の天辺に纏めた、如何見ても学生の髪型には見えない、足も揃えないでバカット開いて座っている。同じ年頃でも、学校によってこんなにも違うものかと思いました。

その日の朝刊にこんな投書が載っていました。

川崎に住む、名前から察すると韓国からの留学生のようでした。
学生らしい身なりの方が・・・と言う題でした。
『日本に来てから一年ぐらいたったが、まだ慣れないことは中高生のかっこうだ。彼らの姿は他の国では見られないものだ。例えば、電車の中だけでなく、道でも、他人の目も構わず座り込み、下着が見えても気にしない。制服と合わないヘアスタイルにもびっくりした。ヘアカラーとかパーマとかは学生時代にする必要があるだろうか。何時から日本の中学・高校の規則が変わったのかわからないけれど、これは学生の身分に合わないと思う。私は20歳前だが、その姿は私の目にもあきれたものにうつる。学生に相応しい身なりをする方がいいんじゃないだろうか。学生みたいな人を見て、制服だろうと思うが、スカートもとても短いし、シャツも汚れているし、本当にだらしない感じがすることが良くある。学生にも自由があるといわれるかもしれないが、わたしは学生にはもっと厳しい規制が必要だと思う。日本は先進国で規則と礼儀に厳しい国だと思っていたが、私のイメージが間違っていたのか。外国人に良い印象が残るように、日本の中高生は考えてみた方がいいと思う』

外国人に良い印象を与える為ではなくとも、私が目にする近畿一円でも、制服は着ているが、ルーズでだらしないと感じることは良くある。スポーツのクラブに入っている子は割りときっちりしているように思う。クラブで先輩後輩の序列を学び、敬語も使えるようになる。軍隊とまでいかないが、少しは箍を掛けることも必要だと思う。

服装の乱れは学生だけではない。成人男子は圧倒的に背広が多いが、女子はアフターファイブを意識しているのか、通勤時と言うのに挑発的なものも多い。今は自由気ままに生きたいために1人住まいも多いと聞く。親の目も届かないのだろう。昔は一流会社の女子社員の採用条件は親の元から通うことだった。ブランド物を身に付け、旅を楽しむ若い人を見ると、家庭に入って、やりくりは出来ないだろうと思ってしまう。外見で人を決めつけてはいけないのだろうが、時を心得た服装を見ると、やはりしっかりと子供を育てた親の姿が垣間見えるような気がする。
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正倉院展

2007年11月08日 | 一寸そこまで
             コスモス
           (武庫川河川敷)

今日までは秋晴れだと言うので行ってきた。奈良はやっぱり遠かった。正倉院展は人、人、人の列だった。紅葉にはまだ早かった。

「根付見に行かへん」「根付ってなんや?」「今のストラップみたいなもの、昔印籠や財布につけてた・・・」「そんなん見て如何するん?」「私好きやねん」「行きたないわ、1人で行き」「外に出て、刺激を受けなあかんで~、そやから誘ったげてんのに・・・」「正倉院展やったら行くわ、釜飯の近所やろ・・・?」「・・・?」夫婦の会話。

正倉院展が12日まで、印籠展(京都)が14日まで。どちらを取る?印籠展。
実は正倉院展を考えた時、私の脳裏にも「釜飯・・・志津香・・・食べられる・・・」と浮かんでいたのです。似たもの夫婦です。意見一致、奈良へゴー。

大阪で乗り換えて、環状線で鶴橋まで出て、近鉄に乗るつもりでしたが、丁度「奈良行き快速」が着たので、飛び乗った。JR奈良駅からバスで「氷川神社まえ」まで。私の足は「国立博物館」とは逆方向「志津香」に向かう。12時前である。並んでいる。1時間待ちらしい。其れを聞いた3組が列を離れた。ラッキーと心の内で叫ぶ。

私達の前は女の子2人、同じ髪型、同じ服装、同じブーツ、同じバック、イヤリングなど小物だけが違う。私が「店の人、チェックにきましたか?」と訊ねるのに、私の顔を覗き込む仕草まで同じ。待つこと50分の間お2人の話を聞く、お陰様で退屈しないで済みました。今度は「和歌山のアドベンチャーワールド」と「雪まつりと旭川の動物園」に行くそうな。

並んでいる時に、前もって注文を取りに来ていたので、座って間もなく「釜めし」は出てきた。何時もの「7種釜めし」と秋だから「栗しめじ」を取り、二人で分け合って食べた。美味しかった。せめて30分で来られるなら、もっと行きたいけど、奈良は遠い。旨いものに目の無い私、又行きたいな~。

旨いものといえば、10月末で閉店した「エスカルゴ」のコックさん達が、私達が何時も行くすし屋さんの近所の北野町の「スイス料理」の店に就職できたと手紙が来た。「フランス料理」の腕を見込まれての就職だろう。「スイス料理」ってどんなものか、見当が付かないが、大好きなエスカルゴ、この店で食べられるのだろうか? 行ってみたいな~。

お腹がくちくなった所で、正倉院展へゴー。拡声器が喋っている「入り口まで30分待ちです」入り口の際まで着くと「現在入場制限をしております。暫くお待ちください」

やっと入ったけれど、黒山の人だかり。何時もの通り「音声解説」を借りていたので、55点の内22点に説明がついていたから、其れを重点的に見る事にした。その場所に来ると隙を見てさっと前に・・・。こんな時だけ、小柄である事に感謝・・・。このぐらいの隙間なら滑りこめると肩身を入れたら、お腹が閊えた。一寸太りすぎやで・・・。

帰りには久し振りに、興福寺と猿沢の池に立ち寄るつもりだったが、疲れてしまった。主人ももう帰るというので、興福寺の五重塔を横目に見ながら通過。

年を取ると「刺激」も必要だけれど、その「刺激」に疲れる。これからはついでだからは通用しなくなりそう。運賃の勿体無いには目を瞑り、目的は一つが良いみたい。そうしなければ「快い刺激」とはいかないようだ。

中々お腹が減らないと主人も言うので、これ幸いと「柿の葉ずし」を晩御飯に買った。おまけに甘いものも、又太るで~。








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ど根性大根3世

2007年11月07日 | テレビから
              コスモス
            (武庫川河川敷)
           コスモスらしいコスモス
        今は背が低くなり倒れにくくなりました

サウナで「ど根性大根」の話で盛り上がりました。兵庫県相生市のコンクリートの道路に育った大根です。相生市長の肝いりで、心無い人に折られた「ど根性大根」は遺伝子栽培され(クローン)、3世になって今秋1万2千本の収穫を上げたというのです。30~60センチもあるというのです。通信販売もするそうです。

話は進んで「契約農家」の話になり、三田の方に行くと田んぼのあぜに「剣菱」と書いたのぼりが立っていると言うのです。そこから「剣菱」は何処のお酒かという事になりました。「四国や」「西宮よ」と二手に分かれた。「我家には主人が好きで何時も剣菱があるよ。でも私は飲まないから、製造発売元が何処かなんて考えた事もなかったわ。家に帰ったら調べてみるわ」と私。帰宅して、まず主人に聞いた「剣菱って、何処のお酒?」「灘やろ・・・」大正解! サウナのお2人とも間違いで、「剣菱」は灘(御影)の生一本でした!

「ど根性大根」は愛称があって「大ちゃん」と言います。「大ちゃん」は心無い人に地上部を折られた為に萎れ始めました。どうにかしたいと、お隣の姫路市の「山陽種苗」の持ち込まれました。「大ちゃん」は一旦危篤状態になった為に花粉が出来ませんでした。そこで隣に花粉を出す相方の大根を植えました。

命をつないだのはバイオ技術でした。昨年2月「延命」を申し出たのは住友化学の子会社「住化テクノサービス」(宝塚に危篤の「大ちゃん」は運び込まれました。私も時々「大ちゃん」のことを思い出してはいましたが、こうして、人々の手によって延命⇒新生の道を辿っていたとは知りませんでした。

洋ランの大量生産などに使われる技術を使って、1ミリ未満の成長点と呼ばれる細胞が切り取られ、培養剤で発芽・発根が試みられました。

「大ちゃん」は枯死しましたが、細胞から発芽し、遺伝子的には全く同じ20体あまりのクローンが出来ました。

クローン2体が「山陽種苗」に託され、取れた種が今年1月に植えられました。餅屋は餅屋、夫々の専門の持ち場があるのですね。

ビニールハウスで育った「大ちゃん2世」は、白い花を付ける4月下旬にミツバチの交配を得て、7月には1万粒の種が取れました。この夏相生市は市内の畑に種を蒔き、「大ちゃん3世」が誕生しました。

余談ですが、元相生市役所に勤めていた女性が「発見から2世誕生」までを絵本にしました。去年の3月、絵本「がんばれ大ちゃん」を出版したのです。実話を基にした物語です。今年3月には「もっと!がんばれ大ちゃん」を出しました。子供や親との交流を描きました。市内の幼稚園では今も読み聞かせが続いているそうです。

大ちゃんの生まれた相生市は戦前から造船の町でした。しかし造船不況と共に寂れてしまいました。「大ちゃん」が相生の名を日本中に広めたようです。

私の勤めていた会社も新造船を相生でも造っていました。私はその製造に関係ある工務課に所属していましたから、次から次へと送られてくる船の製図をファイルしたり、造船所に出張する上司の旅費や日当の計算をしておりました。書類が英文だったものですから、英文タイピストに頼むのですが、神戸に船が入ると営業の仕事が優先され、中々打ってもらえません。そこで会社の始まる前にタイプの練習をして自分で打つ様になりました。「昔とった杵柄」今パソコンを打つのに役立っています。
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再び、沖縄戦

2007年11月06日 | 新聞から
              コスモス
            (武庫川河川敷)
         数少ない白とチョコレート色

雨の一日のはずが朝方に雨は止んだ。お寺さんも早く来られた。去年から広済寺では、若いお坊さんを3人ほど雇って檀家参りを手伝わせている。若いお坊さんはお経が長い。今日は一寸早く入れすぎてお茶が冷えてしまった。勿論同じ日蓮宗なのだが、読む箇所も所作も人によって異なる。初めは違和感があったが今では夫々違うのも又良いかなと思っている。

雨上がりで雑草が取り易いと思ったので、少し本を読んでから草取りをしようと、ソファーに寝転んで本を読んでいた。ド~ンと凄い音がして突き上げられるような感じを受けた。地震はユッサユッサと振れて、物の揺れる音がするものと思っていたが、この頃の地震はド~ンと言う音と縦に突き上げられる感じが多くなった。震源地は奈良だったそうだ。


「沖縄集団自決 検定前に戻してはならない」の記事。
沖縄戦の集団自決を巡る教科書検定問題で、複数の教科書会社が日本軍の強制性を復活させる内容の訂正申請を行った。これを受け渡海文部科学相は教科書検定審議会に再審査を要請した。

教科書訂正申請は教科書検定規則13条で認められているものの、誤記、誤植などの限られ、検定意見に関わる訂正は許されていない。

「集団自決は軍命令である」と言う記事を削除するなと言う、沖縄集会の11万人(実際は2万前後)と言う数に、唯驚き反応した渡海文部科学相の行動の責任は重い。

「沖縄集団自決はなかった」の記事に差し替えるには、色々と調べたのではなかったのか。其れをいとも容易く再度変更しようとする、教科書会社は自身では何も調べもせず、調べた会社に付和雷同しただけなのか。

決行の日付けさえ間違っている当時の記事を鵜呑みにして、現地を一度も訪れる事無く、転記したと思われる大江健三郎氏(だんまりを決めているのは、取材拒否か?)と現地に何度も足を運び、「軍の命令と言う証拠はなかった」と本を書いた曽野綾子氏。私は勿論後者を信じる。


3日の「浜村淳の映画の話」は「ひめゆり」と言う沖縄のひめゆり部隊のお話だった。監督が12年の歳月をかけて撮影した長編ドキュメンタリーだそうだ。自主上映で流石沖縄では何度も各地で上映されている。残念な事に大阪、神戸での上映は済んでいた。唯、来年1月の半ばに京都で上映されるらしいので、是非行って見たいと思っている。

沖縄の女学校、師範学校の16歳~20歳までの乙女が野戦看護婦として、傷付いた兵隊さんを世話するのである。彼女達の一番初めの仕事は、自分達の住む為の壕を掘る事であった。

沖縄に旅行した時、その壕の一つが見学のコースに入っていた。地下に掘られた小さな暗い洞穴だった。「こんな所に・・・」(当時の私はその穴が乙女達の手で掘られたとは知らなかった)と覗き込んでいた。その時、俄にスコールの様な雨が降ってきた。壕はたちまち水浸しになった。当時の凄まじい生活空間、足りない食糧の中、乙女達は兵隊の世話を続けたのである。

ひめゆり部隊を題材にした映画は昔見たことはある。しかし私も若かったからか、余り心に残っていない。今度京都に見に行ったら、しっかりと胸に刻み付けてこようと思う。今の私達の平和は乙女達や戦争で亡くなった人たちの犠牲の上に成り立っているのだと。

若者に街頭で聞いていた。「ひめゆり」を知っていますか?見当違いの答えが帰ってきた。「ひめゆり部隊」を風化させてはいけない。
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always 続・3丁目の夕日

2007年11月05日 | 映画の話
            キバナコスモス
           (武庫川河川敷)
          キバナコスモスだけは
        一つのコーナーに咲いていた

今日は久し振りに主人も一緒に映画を見に神戸に行った。何時もは大阪か伊丹に行くのだが、両方とも時間が早いので、一番遅いミント神戸にした。初めて行く映画館だった。

初めてのビルだけに、映画館に行く入り口が何処にあるかもわからない。前を行く人たちが、映画を見に行く感じだったのでついていった。エスカレーターを上っていく、何だか入り口があるような感じがして私達も付いていく。
だけどなかった。丁度、警備員の人が居たので「映画館に行きたいのですが、何処から行けばいいのですか?」「1階まで下りて頂くとエレベーターがありますので、9階に行ってください」踵を返すと、私達が後を付いていった人たちも下りエスカレーターに乗るところだった。

人の後を付いて行って違う場所に行って仕舞った事が以前にもあった。マイカーで白浜に行った帰り、如何した事か道を間違った事に気が付いた。今のようにカー・ナビがあるわけではなく、地図を頼りの走行である。一応北に進んでみようかと走っていると、目の前に「神戸ナンバー」が来た。「この車の後に付いて行けば帰れるで~」とばかりに、必死でその車の後を走った。所がその車は「和歌山駅」で人を下ろすと引き返してしまったのである。車に乗り初めで、「神戸ナンバー」だから神戸の住民だとは限らないという事を知らなかった為の失敗です。

今流行の8館のシネコンである。今日入ったのはその中でも最大308席、縦長で通路が両側にしかないのが一寸不便かなと言う気がした。予告編がもう始まっている時間に着いたため、場内は暗く、気も急いていたので周りを余り見なかったので、映画が終わって、場内が明るくなった時驚いた。何時も一番の上映時間と言えば、20人、多くて40人ぐらいなのに、308席9割は入っていたと思う。

二年前の「3丁目の夕日」は日本アカデミー賞、他数多くの賞を貰った。「続」を望む声に推されて作られたそうだ。この「続」の時代は昭和34年春だそうだ。
昭和34年春といえば私達が結婚した時期である。東京タワーは33年に建ったのですね。結婚後だと思っていました。懐かしい、厳つい「こだま」も出てきました。初めて「こだま」に乗ったのは親子4人で名古屋まででした。我家の経済では運賃が高かったのですが、子供たちを乗せてやりたくて「名古屋」まで行きました。

お話としては何でもない、何処にでもある状態なんですが、今と違って、五月蝿い時もあるが、何時も助け合うご町内の話でもある。町内ばかりではない、主人公の鈴木家にも親戚の女の子を預かるという助け合いがある。裕福に育った、気位の高いその女子は初めは貧しい鈴木家の全てを嫌うが、母親を早くになくしたその子を鈴木家のお母さんが優しく躾けていく。人の愛に包まれて生活する内に素直ないい子になる。これも一つの主な話かしら。

終わって配役などが流れる時、主題歌パンプの「花の名」が流れる。監督がパンプのファンで熱烈に頼み込んで書いてもらったそうだ。その歌の中のフレーズに「会いたい人がいる 待ってる人がいる」と言う言葉がありました。とても心に響いた言葉だったのです。其れもそのはず、私は気付きませんでしたが、ポスターのコピーにも使われているそうです。

特別にいう事もない話なのですが、良い映画でした。
                          (550回)
                        
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古巣

2007年11月04日 | 一寸そこまで
           突きぬきホトトギス
         葉と茎の接点を見てください
       名の通り葉を突き抜けて茎が出ている

「秋の音楽会」に行って来ました。言いましても趣味のコーラスグループの発表会です。私の古巣です。唱歌が歌いたくて、今の学校に転校する前に在籍していました。

懐かしい顔があちらにも、此方にも・・・。ご一緒していたときの事が、昨日の如く思い出されました。先生を初め、皆さんお元気で何よりだったと思いました。

お教室はお昼と夜とありまして、私は夜だったものですから先生のご自宅でした。歩いて10分掛からない所です。皆さんご近所なんですが、不思議とお会いしないんですよ。お昼の教室は少し離れた公民館にあるのですが、今日のように音楽会を持ちます時は、合同練習を、お昼のお教室でしましたから、お昼の方も知っているわけです。

コーラスは7曲勿論暗譜です。皆さん私と同年輩の方々ですから、努力が要ったことと思います。「努力賞」を差し上げたい。

曲目ですが、やはり先生のお好みが入りますから、私も習って知っているものが大方でした。客席で一緒に歌っていましたよ。

このグループに居たとき、一時期「メゾソプラノ」に居たことがあるんです。歌っていますと、どうも似た音階(メロディ)があるんです。作曲者は違うのに・・・と、不思議に思っていました。手書きの譜面を見ていて、あるとき気付いたんです、3部合唱にする為に、先生が編曲?、メゾ部分を書いておられたんだと思う。人間本人は気付かないけれど癖ってあるのですね。

私には解りませんが、有名な音楽家でもやっぱり癖、癖と言うかどうか解りませんが、特色があるのでしょうね。ベートーベンにはベートーベンの、山田耕作には山田耕作の旋律・・・。それとも高名な方は一曲一曲別物なんでしょうか?

集団疎開先での毎夜、ささき先生のアコーディオンでコーラスを習ったときから、楽譜無しで、耳から聞いて覚えたのが習い性になっているのか、楽譜を覚えようとはしないんです。長い間歌っていますから、何となく読めるのですが、すらすらとはいかないんです。学生時代楽譜を読むテストが一番嫌いでしたね。でもそのときは必死ですから何となくパスして、「優」又は「4」でしたね。メキシコのオユキサンは学年で一番だったと思いますよ。声はきれいだし、ピアノを習っていましたから、音階も確かですしね。でも不思議な事に遊んでいる時歌を歌ったと言う記憶がないのです。

話がそれました。コーラスの後は「ハンドベル」ならぬ「ハンドチャイム」と言う楽器?とコーラス。コーラスにかき消されて、と言うより、まだ始めたばかりとの事ですので、自信がないので音が出ていないという感じでした。

独唱とデュオこの部分は要らない。若い女性が2人。2人共若いのに驚くほど声量がない。私には歌の上手下手は(日本語の歌でなかったので)解らないけれど、聞いている方が安心できない歌。

トロンボーンの黒一点の男性。技量の程はわからない。歌の女子との共通点だが選曲を考えるべきではと思った。

先生はお客様に色々楽しんで頂こうと趣向を凝らしてくださったのだろうが、裏目に出ていると思う。

「ご一緒に歌いましょ!!」が最後。4曲一緒に歌わせていただいた。出てきましたよ此処でも「千の風になって」が。

何時も学校で「皆さんの顔は怖い、もっと笑顔を」と言われ続けている。客席からその事の大切さを「人の振り見て、我振りなおせ」実感した。



コメント (2)
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