ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

硫黄島から戦場の郵便配達

2006年12月10日 | テレビから
         小さなスミレ、寄せ植えなんです
         寒いのに一生懸命咲いています
     ガーベラ、ベコニア、サンゴバナ、ゼラニューム
    季節に遅れても小ぶりでも、ひっそりと咲いています

昨夜、放映されたドラマです。ビデオに取ってあったので今夜見ました。私の知らない事がぞくぞくです。本当に先の戦争の事は何も知らないんだな~とつくづく思います。

市丸利之助(りのすけ):硫黄島で玉砕した海軍航空部隊指揮官。時の米国大統領ルーズベルトに宛てて日文・英文(部下にハワイ出身の人が居て翻訳させた)の遺書『ルーズベルトニ与フル書』を書いた人である。この手紙は激烈な戦火を潜り抜け米国に現存する。軍人歌人でもある。

テレビではこの遺書に付いては触れてなかった。戦場の兵隊にとって、家族からの便りがどんなに嬉しく待ち望んでいたか、生きがいであったかに焦点が当てられている。画面の中に何度も現れた葉書はご家族からお借りした物だろうか。軍事郵便は検閲をうけ、軍の所在は知れないようにされた。軍事郵便は無料ではあるが一回に1人2枚と決められていたようだ。

同じ戦場にいても生死をわけ無事帰還した人もある。彼らは戦後の人生を戦死した戦友の最期をご家族に伝える事に費やした。

硫黄島総指揮官栗林中将(7月19日硫黄島で触れています)とは合い通じるものがあって、陸軍海軍の長ではあったがその中は上手く行った。硫黄島は栗林陸軍中将、市丸海軍少将と言う優れた軍人の戦いの場であった。

硫黄島は現在は自衛隊の基地で、一般人は上陸できない。地下壕にカメラが入ったのも初めてだそうだ。市丸少将の椅子やベットが写っていた。雨水を溜めたであろうドラム缶、防毒マスク等、戦後61年経った今も残されたままです。持久戦に持ち込む為の壕は昼夜を分かたず掘り進んで、深さ20メートル、距離18キロ、一日に掘り進んだ距離は1mだった。

市丸少将には『海軍少将の奇跡の刀』と言うお話がある。奇跡は三度起きたという。

最初の奇跡:市丸少将が戦闘機で飛んでいる時、弾が当ったがこの刀の切っ先が折れただけで少将は負傷を免れた。その後、折れた刀を研ぎなおし愛用した。

二度目の奇跡:市丸少将は常に家族に彼の死を覚悟するようにと言い置いていた。家族は特徴のある軍刀が彼の倒れた場所を示してくれるものと思っていたが、刀が見つかったという知らせは来ず、遺体の在り処はわからなかった。

20年が経過した頃、米国では硫黄島関係の本が出版され、その中の一冊に市丸少将の刀についての記述があった。歴史学者で、自らも硫黄島の戦いに参戦した事のある人が以前硫黄島の戦利品として買った刀がそれではないかと思い、調査の結果、市丸少将の刀である事が判明した。刀はニューヨークを訪れた退役軍人に言付けられ未亡人の元に戻ってきた。

3度目の奇跡:唐津城内(市丸少将は唐津の出身)で起こった。戻っていた刀を展示品として貸し出していた、ところが泥棒が入り、刀は他の展示品とともに盗まれたのです。未亡人はすでになくなっていましたが、長女の晴子さんは刀が戻ってくる事を信じていました。三年後、この刀を古物やで買った方が、この刀の特異性に気付き調べた所、市丸少将のものと解った。こうして再び刀は市丸家に戻ったというお話しです。

テレビで敵味方であった米国、日本の兵士のご家族達、生き残った戦友たちが硫黄島で一同に会し、共に祈っているのを見て、戦死した人達はどの様に思っているのだろうか。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする