ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

合祀

2006年07月21日 | 新聞から
            サボテン
           これ葉?体?
     此処から長~く首を伸ばして花が咲きます
         何処にでもあるサボテン

昨日からテレビも新聞も「靖国神社の合祀(二柱以上の神や霊を一神社に祀る事)」を取り上げている。昭和天皇の呟きメモが出てきたから・・・。天皇だって人間なんだから時には腹に据えかねる事を側近に言われることもあるでしょう。それをメモした元富田宮内庁長官(故人)が口外しなかった事を19年も経ってから、今何故明るみに出してきたのか、メモを提出した長官の子孫の方の思いが私には解らない。

靖国神社にA級戦犯が合祀は1978年、昭和天皇は1975年戦後8回目の参拝、以後参拝はなく理由は憶測の域を出なかった。この度メモが現れた事によってお心が分かったと言うのである。富田元宮内庁長官のメモに寄れば靖国神社へのA級戦犯の合祀について昭和天皇が死去する前年の1988年『私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ』等と発言し、ご不快感を表された事をメモに残していたというのだ。

私個人の意見としては亡くなってしまえば皆同じではないかとも思うし、戦争を始めた人と、それによって自分の意思に関係なく国に命を捧げた人達は違うような気もするしと、どちらが正しいとは言えない。

「散るぞ悲しき」を読んだばかりなので、A級戦犯とは戦場に身をさらす事無く、机上で作戦を練り人々を戦場に送った人たちである。そうで在るならばその罪は重く、死に至るプロセスの違いからも同所への祀りはいかがかとも思えるが、A級戦犯以外の方の遺族の方達はどのように思われるのだろうか。

近年「小泉総理の靖国への参拝問題」が世論を賑わせている。他国からの圧力で参拝を止める事は良しと思わないし、個人の資格として参られるならなんら口出しすべき事ではないと考えている。

1月に東京に行った目的は国技館で国技の相撲を見る事、国会議事堂の見学の為だった。議事堂の見学を済ませ時間があったので「靖国神社に行って見よう」と言う主人の発案で靖国神社に参拝し、問題の「遊就館」にも足を延ばした。

靖国神社は私の想像したより小さかった。ガードしている人に聞けば「まともに神社奥にカメラを向けなければ撮影可」と言われたので写真も撮った。又滅多に見られないものにも出くわした。社殿に一番近い鳥居の横軸がクレーンで外されているのである。修理の為だろう。私は鳥居が修理の為解体されるなんて考えた事も無かった。「遊就館」からの帰りに見ると鳥居は跡形も無くなくなっていた。

「遊就館」を見た感想を残していたので転記してみる。
そういう時代とはいえ、私は息子を赤紙一枚で招集されるのに我慢できたか?遺書も沢山展示されていたが私の心を打ったのは「おかあさん」と言う字のみを数10回書いている手紙、その心を思い涙する。その彼の上官がその母に戦死を知らせる電報は「ヤスクニノミヤニ ミタマハシズマルモ オリオリカエレ ハハノユメニ」とあった。全般に見て、一部の人が言うように「戦争を美化している」とは感じられなかった。親を思う子の命の叫びがそこには在った。

ドキュメント映画「私たちはわすれない」も見た。歴史が苦手だった、いや嫌いだった私が知ろうとしなかった日清・日露・大東亜戦争が何故おこったかを今日しっかりと解った。小学4年生で終戦を迎えた私には不自由した事だけが記憶に残り、親世代の苦しみはわかっていなかった。朝鮮は逆恨みしていると感じた。子供や孫にも是非一度来て見て欲しいと思いメールした。自分で見て感じ判断して欲しい。
と記していた。

小泉さんの「参拝するしないはそれぞれの人の思いですから、心の問題ですから・・・」と言う言葉は私の心に響いた。














































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集団疎開(3)

2006年07月20日 | 思い出話
            スペアミントの花
        すごい繁殖力、切れば切るほど群生する
         ハーブティーにも、飽きたし・・・

集団疎開とは戦争が激しくなって子供を田舎の親戚に預ける人が増えたのですが、田舎の無い人もいるわけです。その人の為に学校が纏めて疎開に行かせたんです。
初めは3年生から6年生でした、途中から姉妹や従兄弟のいる人は良い事になり、私達の所にも1、2年生がやってきました。よく泣いていましたね。

初めは私も縁故疎開していたのですが、その家は5人預かっていましたね。他の子は直ぐ田舎の生活になじみましたが、一人娘でおじいちゃんに護られてわがままに育っていたからでしょうか私は駄目でした。帰りたいと手紙を書きました。それで
集団疎開の話が出た時母が申し込んだのです。

疎開の荷物(行李一つと決められていた)の中には1冊のアルバムが入っていました。B-29の焼夷弾で家は丸焼けで何も残っていないのに、写真だけは残ったのです。誕生の写真から3年で疎開に行くまでの、色んな記念の写真は皆残っています。母の心配りに感謝しています。写真がなければ覚えていない私の人生のページがあるからです。

疎開して6ヶ月ほどした時です。おじいちゃんが突然現れました。よっぽど私に会いたかったのでしょう。その頃は乗り物の切符は中々買えない時代でした。歩いてきたと言うのです。朝は暗い内に家を出て、山を一つ間違ったと言って着いたのは夕方でした。電車の線路を辿ってきたそうです。80歳の老人がです。

先生は「おじいちゃんとお話なさい」と言いました。と言っても修養道場ですから大きなお部屋が一つあるっきりです。おじいちゃんと私は玄関の上がりかまちで二人並んで暫く居ました。私は戸惑っていました。嬉しい事は嬉しいのですが、それを言葉に出せませんでしたし、その反面『自分ひとりだけ』と言う事に気兼ねの様な感情もあり、早く帰ってくれないかな~と言う気持ちもありました。先生は向いの男子寮に泊まっていってくださいと言って下さいましたが、1時間も居たでしょうか帰って行きました。それがおじいちゃんと私の最後の思い出でした。それから3ヶ月もしない10月17日おじいちゃんはこの世を去りました。

母が言いますには、その頃は焼き場も一杯で、順番待ちだったそうです。それも自分達で焼き場まで運んで行かなければならなかったそうです。棺桶なんてありません。大八車を借りてそこに遺体を載せ、焼いてもらうべき薪と共に運んだと言っていました。薪を持っていかないと引き取ってくれなかったそうです。その上遺体を積み上げて焼くんだそうです。人の下にならないようにおんぼ(遺体を焼く人)に『心ずけ(袖の下)』を弾んだので一番上に置いてもらったと言っていました。

今でも時々思います。おじいちゃんが来てくれた時、何故喜んで上げなかったのだろう。おじいちゃんはどんな気持ちで暗い夜道を帰って行ったのだろう。寂しい気持ちだっただろう。もしかしたら男泣きに泣いていたかも知れない。今でも私は後悔し、詫びたい気持ちで一杯です。

神戸から加古川まで40キロ程あります。山を一つ間違えたと言っていましたから50キロ位歩いたかも知れません。孫に会いたい一心とはいえ、80歳の身にはきつかったでしょう。私が遍路で歩いている時は一日約25キロ前後が目安でしたが、宿の都合でどうしても40キロ以上歩かなければならない日がありました。
そんな時は朝は暗い内に出ても着くのは夕方でした。おじいちゃんは40キロ歩いて1時間もしないうちに又トンボ帰りです。戦後間もなくの事とて十分な食べ物も持っていなかったでしょう。おじいちゃんが着物を絡げて帰っていく後姿、目に焼きついています。愛って凄い力を発揮するものですね。おじいちゃんの愛を一杯貰った私は幸せです。愛を貰って育った私は又愛を一杯持っているような気がします。



























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硫黄島

2006年07月19日 | 気にかかる
         木立性ベコニア(ピンクレディー)
      親か姉妹かの「ミセス・橋本」が寂しい花付き
       それに比べ今年は此方が吃驚する位の多花

「散るぞ悲しき」を読み進む内に、後わずかと言う所で、思いもかけない文章が目に付いた。私の運命を変えた昭和20年3月17日神戸の大空襲に焼夷弾を落とす指揮を取った人の名が記されていたのである。神戸に焼夷弾により無差別爆撃を立案し、実行した司令官の名は「メイル少将」その上もし「硫黄島」が米国の手中になければ、彼の飛行機は基地まで戻れなかったかも知れない、「硫黄島に」不時着したので危うく命が助かったというのだ。

思いがけない事で硫黄島と神戸の大空襲と私の運命と言う見えない糸の繋がりが見えてきた。知ったからと言ってどう言う事ことでもないが、3月17日の神戸大空襲に纏わるお話を知った事はやはり得がたい事だったと思う。読書はこれだから止められない。

神戸の爆撃に参加したB-29の内13機が硫黄島に不時着して助かっている。その硫黄島の滑走路は、その当時もはや日本には(硫黄島に援軍としてくる)飛行機等無いのに、米軍の上陸直前まで飛行場の拡張工事がなされた。軍部中央の陸海軍の対立(縄張り的主義)の為、硫黄島の防備方針が一本化されなかったゆえである。

飲み水が無く、雨水を溜めて一人一日水筒一杯分(後にはそれすらなく、草の露に大喜びした)と言う過酷な条件の元で造られた滑走路を利用したのは日本の飛行機ではなく、米軍機です。終戦までに不時着したB-29は延べ約2400機で約27000人の搭乗員の命をすくった。不時着だけに使われたのではない、完全に陥落した硫黄島には後はB-29を掩護する多数の戦闘機は勿論、B-29も配備された。日本本土への距離が短くなった為に米軍機は日本の何処へでも自由自在に飛び立ち、爆撃する事が出来るようになった。硫黄島を我が物とした事で空路はアメリカの勝利への道となった。

硫黄島総指揮官 栗林中将(死して2段階特進大将となる)の辞世3句のうちの一句

   国の為 重き勤めを 果てし得で
        矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

大本営は「散るぞ悲しき」を女々しいという事で「散るぞ口惜し」に書き換えて発表したんですよ。「辞世の句」を書き換えるなんて、軍隊ってそういうところなんでしょうね。

ほんの題名はこの元の歌から取られたものです。

平成6年2月始めて硫黄島に行かれた今上天皇が詠まれた御製。

   精魂を込め戦いし 人未だ
        地下に眠りて 島は悲しき

天皇陛下は硫黄島を訪れられた時は、色々と硫黄島についてご勉強されて行かれたと思う。だから「悲しき」が「口惜し」に書き換えられたこともご存知であろう。全てを含めてお心として「悲しき」を使われたのであろうか・・・




















栗林
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写真

2006年07月18日 | 新聞から
                グラジオラス
             一昨日の黄色と違い小ぶり
            風に倒れる事無く、空に映える

今年初めて、セミの声を聞きました。我家の庭ではまだ啼いていません。もうじきあちこちの地面にポツポツ穴が開き、セミが這い出し短い命を謳歌するのですね。長雨が上がり太陽が照る日を待っているのでしょうか?・・・

「いわせてもらお」から・・・「うつるんです」
カラープリンターを買いに出かけた。キャンペーン中で、デモ販売をしている。ハッピを着たまじめそうな若い営業マンが「どんなにきれいに印刷できるかみていただきます」といって私をデジカメで撮影し、その場で印刷。「奥さん、どうです。こんな小ジワまでくっきり出てるでしょう」他のメーカーのを買った。(シワ消去機能付きのものがほしいのよ・54歳)

本当に今はカメラも印刷機も性能が良くなって、視力の弱った自分自身にも見えない所までくっきりと写し出して吃驚しますね。女優さんが美しいのは縦から横から上から下からライトや反射板でシワが写り難くして貰っているからですよね。

昔は写真を写されるのが好きでした。でも今は嫌ですね。特にアップには耐えられません。遠方から写してもらいたいと切望します。

集合写真の場合なるべく中央に立ちます。端に行くと横に広く写ると聞いたからです。でも今は中央に立っても太めですけど・・・

中学の同期生でカメラを趣味の男の子がいました。戦後間もない頃ですから中学生でカメラを持っている子なんて居ない時代です。きっとお家がお金持ちだったのでしょう。メキシコのおゆきさんと私はよく写真を撮ってもらいました。その頃の私達はピチピチギャルですから何処から撮られてもO.K.なんですよ。写されるのが嬉しかったですね。それに何時もその写真をプレゼントしてくれましたから。

彼は始め役所に勤めたのですが、先輩を見て自分の一生が見えて、こんな一生は嫌だと感じて、好きな写真の道を勉強してカメラマンになったんです。自分の事務所を持つ傍ら結婚式場のカメラマンでも在るのです。息子さんもカメラマンです。

彼の結婚が面白い縁なんです。結婚式のレセプションで花婿役だったそうです。その時の花嫁役だった方と本当の花婿花嫁になったのだそうです。縁は何処にあるかわかりませんね。奥様にはお会いした事がありませんがモデルに選ばれるくらいですから綺麗な方なんでしょう。

彼は私の主人をよく知っています。初めは結婚式でした。私が後何日かで結婚すると言う日ぱったりと元町で出合ったのです。彼がカメラマンである事も、弟子入りして結婚式場で助手をしている事も知っていました。私の結婚写真を撮りたいというのです。でも彼の属する結婚式場と私の結婚式のホテルとは違いますし、ホテルにはホテルの写真やさんが入っていますしと断ったのですが、粘るんです。あの元町通りを何遍往復したかしら・・・。とうとう私のほうが根負けしまして、結婚相手に聞いて見るという事で解放されました。

主人の承諾を得て、写してもらう事にしました。ホテルとの交渉は彼の方で取ると言う事で。私は家から着付けして出ましたので、朝の早くから彼は家まで来て写真を撮ってくれました。もう一人会社の仲間のみよこさんが当時カメラに凝っていまして、女同士ですから顔作りから、着付けの場面まで沢山撮ってくれました。彼が私の写真を撮っている所も写しています。

彼とはメキシコのおゆきさんが訪日した時には何時も3人で会っていましたし、同期会の二次会では主人の行きつけのスナックで主人共ども7~8人でワイワイ飲みましたね。主人は男女共学の私達が羨ましいと言っていました。主人は「男女7歳にして席を同じゅうせず」の年代ですから。彼は私に頼むんです「今度はXXさん呼んで」「次は○○さん呼んで」私も「はいはい」と呼んであげるんです。私は彼の思い出の呼び出しさんですね。またまた脱線、しからばごめん!





























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祇園祭

2006年07月17日 | テレビから
              珊瑚花
           何とも変わった形で
        花びらは「菊の厚物」の様な感じ

祇園祭、生憎の雨でした。京都放送の解説者の説明によれば「雨でよし」なんだそうです。元々が長雨続きに疫病が流行り、その病の流行を沈めていただく為の神頼みだったそうです。だから祇園祭は雨天決行なのです。

雨で良かったのは、渋い色合いの蛇の目傘です。久し振りに雨に打たれる蛇の目傘を見ました。布の傘もありましたがいずれにせよ渋い色合いで、少しも邪魔になりませんでした。だのに京都放送の女子アナ二人が透き通ったビニールの傘を差して写っていたのには幻滅を感じました。又着物も着崩れていていて困ったものです。祇園祭の中継です、もう少し雰囲気に添う様に考えて頂きたい。

祇園祭は大阪の天神祭り、東京の神田祭とともに日本三大祭の一つであり、又岐阜の高山、秩父の夜祭とともに日本三大曳山祭りの一つでもあります。

水の都大阪の天神祭りは去年久し振りに見に行きました。でも思えば肝心の天神さんにお参りした事が無いのでした。祇園祭にしても行列を数年前に見に行きましたが、その時に八坂さんまでお参りに行きませんでした。当日は今日のように雨ではなく助かりましたが、テレビで見るほどカラフルとは感じませんでした。鉾山とも数十基在るのに統一感が在るのは赤の色と金色が共通色だからでしょう。

今日残念だったのは蟷螂山(トウロウヤマ)の「カマキリのからくり」が見られない事でしょう。からくりは緻密な機械ですから。高山でも私達は午前の部で見ましたが、午後から小雨の予定で「からくり」は中止になりました。やはり「山車を雨に当てるのを嫌って、予報が出ただけでも(からくりのみならず)行列は中止になる」とは商店主のお話。これが祇園祭の雨天決行との大きな違いです。

夕方からは今度は御神輿三基が祇園さんを出てお旅所にお渡りになります。24日夕方までお旅所に滞在します。御神輿には「スサノオノミコト」「クシイナダヒメノミコト」「ヤハシラノミコカミ」が載られます。その間八坂神社はからになるわけです。この行列も見たことが在りません。

4月には高山の春祭りで御神輿の行列を見ましたが、そのお供の方々は各町内の有志の方ですが見事にお年寄りの方ばかりで、高山も若年層の過疎地かなと感じました。タクシーの運転手の方の話では「高山市内は土地が無いので子供達は結婚すると郊外に所帯を持つので、市内は年寄りが残ってしまう」と語りました。

祇園祭には本祭りの前、宵々々宮、宵々宮、宵宮と3日間の宵宮があり、山車のそばまでいけるし、山車の上に上がらせてもらえる。昔は男の子だけで女の子は上がらせてもらえませんでした。今は違います。メキシコのおゆきさんが子供を連れて里帰りしていた時、子供達が山車に上がって大喜びだったという話を聞きました。
その彼女達も皆結婚してママになっています。月日の経つのは何と早いのでしょう。

宵山にはもう一つ「屏風祭り」といってお家の宝としている品物を金屏風を立て回した前に並べ、道行く人何方でも見せていただけるという行事があります。子供の頃親に連れられて行った記憶はあるのですが、京都の夏は蒸し暑く、子供心に余り好きではありませんでした。ただ開けてみるまで中に何が入っているか解らないというサイコロ(子供の手のひらサイズ)を買ってもらうのが楽しみでした。大人になってからは行った事が無いので此処も行ってみたいな~。

今日始めてみたものがありました「くじ検め」です。言葉としては知っていましたが、市役所で事前に順番のくじを引いているのを、当日改めて、山車に一人の代表がそのくじを「くじ検め」の人の前で示す、その関連の動作が興味深かった。「くじ」を持参する代表は大人あり子供ありで自由のようでしたがやはり子供が可愛いですね。許可を得た後は扇を開き山車に向かって「お出でおいで」をするように翳します。それより後、山車は動き始めます。色々と伝統は守られているようです。

今日雨にも関わらず13万人の人出とか、観光客も伝統を守る行事の片一方の担い手であると思います。大勢の人に見てもらうことが伝統を守る方々の励みになっていると思うからです。










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今、ジムで

2006年07月16日 | 今日この頃
             グラジオラス
          カンナと見まごう大輪で
       葉も大きく重く、直ぐ倒れるのが欠点

通っているジムが建て増ししているので、プールと化粧室、新しいスタディオが出来て使用出来るのは良いが、ロッカーが元の棟にあるので、運動後シャワーを浴び、ドライヤーを掛けに行くにはくねくねと歩かなければならない。

歩くだけなら良いが、シャンプー、石鹸(ジムで備え付けはあるが私は自前)、シャワーを浴びた後に着るもの、化粧品等持っていかなければならない。私は風呂敷持参で一切合財包んで持っていく。大体の人が袋である。私の風呂敷を見て「わ~懐かしい、久し振りに見た~」と言う。本当に今、風呂敷は見なくなった。こんな便利なものは無いのだが洋服には一寸合わないから。

プールは皆さん大満足。25mプールが5レーンありその周りもゆったりとして、寝椅子が並んでいたりする。ジャグジーも以前より大きいのがある。天井は高く吹き抜けになっている。本当にゆったりしている。私は2階の窓から眺めるだけで降りていった事がない。

所が風呂場が不満である。野天風呂(ゲルマニュームが沈められている)がある。一度だけ霧雨の時入った。日が照っていると日焼けしそう。湯船も在る、これが又何思ったか馬鹿でかい、利用者も少ない。私は毎回入るが何時も一人である。大きいのを文句言うのはサウナが極端に小さいからだ。サウナ愛好者は皆ブーブー言っている。ご丁寧に水風呂まで作られた。以前はシャワー室だけが沢山あったが、今はシャワー室5室と座って洗う洗い場が6人分ぐらいになった。絶対数としては以前の2/3ぐらいに減った。昼からの方は順番待ちになるだろう。

私設ロッカーも増設されたので私達も今月から借りる事にした。靴や洗面道具、化粧品、置き傘等便利であるし、毎日のバッグが軽いのが助かる。私は2キロの道を歩いて通うので(帰りはバス)、だんだん荷物の重さが肩に負担に感じてきた。帰りにスーパーにも寄って帰るので、大助かりだ。これで月1,050円は安い!と思うようになった。鍛えている積もりでも弱ってきているのだな~。

この頃は週に2回はジムで器機を使っている。スタッフが親切に指導してくれるので、真剣に聞くと、足の位置、腕の位置が正確であれば、鍛えようとする箇所への効きかたが違う事を知った。少し位置をずらせる事で効く場所も変化する事も知った。

スタディオのレッスンでも先生のお喋りから色んな事を学んでいる。「楽動の法則」と言うのがあって、痛いほうの足、腕は動かさず、動くほうだけを動かしているとあら不思議・・・痛いほうの足、腕が上がるようになるのである。声を出す事も大切で「や~!」「えいっ!」など好みの掛け声を掛ける時は本当にすっきりする。それと同じで先生は立ち上がるときは{どっこいしょ!」と声を掛けたほうが良いと教えてくださる。

又運動中は決して足を止めてはいけない。足を止めると血の流れが弱るから・・・。
「心臓は血を送り出すことはしても、戻す事は出来ないそうで、戻っているように感じるのは、次々押し出されてくる血液に押されているだけだって。だから歩くという事は身体の隅々まで血の流れを良くする働きを助ける事になるそうだ。

ストレッチも動かしている時効くのではなく脱力したときにじわ~っと筋肉に効くのだそうだ。呼吸も吐く息を意識して吸った時の時間の2~3倍の時間を掛けて細く長くはく事(これは太極拳で教えられ実行している)と教えられる。吸う息は意識しなくとも出し切れば自然に深く吸い込むから。「複式呼吸」が良いのは知られているが、「逆複式」といって、吸った時腹を引っ込め、はく時に腹を膨らませる。これは内臓を丈夫にするそうで「太極拳」はこの「逆複式」である。

教えられる迄は息を吸う事に重きを置いたり、ストレッチも動かす方が大事と思っていて、脱力の余韻を感じる事をしなかったりと、何だか逆ばかりしていたような気がする。運動大嫌いな私も身体を動かした後の爽快感を感じる事が出来るようになっている。家族に迷惑を掛ける事が無いように、気負わず身体を鍛えようと思う。




























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旅立ち 中田英寿さん

2006年07月15日 | テレビから
             なに?       
       名を忘れた。針山を思い出す小花の集まり
         頂いた時は一本大きな塊でしたが
          今は7本になり花も小ぶり

そこには私が始めてみる優しい笑顔の中田さんが居た。今までは試合中の彼をテレビ画面で見ていたので、こんな優しい顔を見たことが無かった。テレビの彼の目は「鷲の目」首を左右に振る時も「鷲の動作」に似ていた。一つの大きな節目を越えた安らぎがそこに見えた。

特別中田さんのフアンと言うわけではなかった。しかし気になる存在ではあった。

日本チームについて「ジーコ監督は自由にをモットーにしていた。しかし自由には責任が伴う。このチームがその考えに沿うのはまだ早すぎたようだ。トルシエ監督のようにスケジュールを組みその通り練習をこなしていくほうが合っている」なんとなく解るような気がする。与えられたものをこなすのは、その事のある程度の力、理解力があれば出来るが、責任を持って向上していくためには、実力と理解力が数段上でなければならない。監督差配と日本チームの落差を言っている。

リーダーとの確執もあったらしい。その場合チームメートはやはりリーダーの意見に賛同するだろう。自分の言い分が正しいと思っていても通らない悔しさ、むなしさを感じていただろう。日本チームの選手は十分実力はあるのに、それを100%出すすべを知らない。この4年かんそのことを伝えようとしたが、上手く伝える事が出来なかったと言う。

中田さんと比べるのはおこがましいが団体生活において私も幾度と無く経験している。事を新しく変えるのはすごいエネルギーが要る。でも思い余って「こうした方が・・・」と言っても大半は「長いものには巻かれよ」感覚で「わかるど・・・」と自己保身に傾き争いは避ける。何も争う事は無いが話し合う機会は持たないと進歩はないしマンネリになる。時には思い切った変化も必要ではないか。

中田さんはイタリアから「連帯の星勲章」を貰っている。これは色んな分野の人をイタリヤに紹介し、イタリヤにプラスになった人に送られるらしい。

怪我をしても公表しない事について訊ねられると「此処が痛いから・・・」と公表するのは「本当はもっと出来るのだが痛いからゴメンと言い訳しているようで言いたくない」「それを言うくらいなら出ないほうが良い。プロだから何時も体調をベストに整えるべき」と言う意味のことを言っていた。何時も弁解して事を成す人が居るが私の嫌いな人の部類だ。先に弁解するなら引き受けるなと言いたい。

何かで読んだが、中田さんが事業家だとも言われているが、その一つにイタリアに彼の店が在ったらしい。全て食材に至るまで彼の目に叶った物で、彼とファンとの架け橋の様なお店らしい。店にはパソコンがありそれに触れる事によって、彼のことを知り、また書き込みも可能らしい。実は東京にもワールドカップ中限定でお店「nakata.net.cafe]がオープンされていたらしい。感じの良い店のようだ。フアンを大切に思っていた彼の心の現われだったのだろう。明日、閉店される。

今後についての質問には「世界中を旅する」と言っていた。「自分が『こうだ』と思っていたことも実際には違うかも知れない、それを実際に見て、経験する為にも、世界中を見て廻りたい」まだ若い彼だ、時間はたっぷりある「百聞は一見にしかず」を実行してもらいたい。これから益々目の離せなくなった「他人の息子さん」だ。こんなしっかりした息子を産み育てたのはどんな親御さんだろう。しっかりした方だろうと思う反面、やっかみから反面教師かも?なんて意地悪い事も考えて。

日本中を旅することは?の問いには「外国で生活して、日本の事を聞かれた時『それはこうです』と答えられず恥ずかしい思いをしたので、日本中を旅することもしたい」と答えていた。

一つ事の頂点に達した時その位置を守り続ける事も良いが、思い切って過去を脱ぎ捨て新しい世界に飛び込むのも一つの生き方だ。彼にとって「サッカーは生活の中心だったし、プロでなくなってもその誇りは忘れず生きていく」と言っていた。

素晴らしい日本青年に倖多かれと祈りつつ。


























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100回目

2006年07月14日 | 今日この頃
             サボテン
         ヒモのように長~く伸びる
       ヘビ嫌いの私もこれだけは我慢出来る
        こんなに可愛い花が咲くから

早いもので100回目の記事です。パソコンの前に座るまで何を書くか決まらない日もありました。でもテーマが決まれば脱線しながらも書く事が出来ました。画面の向こうで読んでくださる方が居られるからです。もう少し纏められれば良いなと思っています。努力していきます。それまで一寸長いの我慢してくださいね。

唱歌の学校の終了式でした。何時もと同じなんですが8月18日までお休みなんです。私はJR西宮の駅から30分かけて歩きます。初めは3人で歩いていましたが、一人抜け二人抜け、とうとう一人になりました。止められたのではないのです。
ひざが痛くなったり、他のお稽古からの帰りだったりで学校に近い駅阪神西宮に変わられたのです。

今日は11月にある音楽会(これは生徒主催と言う事になっています)10クラス以上ありますので、どのクラスがどんな歌を・・・と言う情報を貰いました。一番新しい組は始めての経験なので張り切っています。歌に因んだティーシャツを作ります。今日見本が出来上がって私達も見せてもらいました。前面は歌に因んだ絵柄を会員が書かれたそうです。バックはクラス名「虹」に因んで虹の上で女の子がイナバウアーの形・・・此方はコンピューターの既製の図柄だそうです。神戸の「北野工房」で2,000円そこそこで作れるそうです。先輩である私達もどんなものを着るのか、絵に描いて8月18日に提出すると言う宿題が出ました。

「虹」は同期組あわせて60人以上いるのでと、のりこ先生「コーラスは人数が多いほど迫力があるので上手に聞こえる。去年まではこのクラスが一番多かったけど、二番手になりました。でも負けていないものもあるわよ」「???」「平均年齢よ」皆大笑いです。何時も軽いダンスを入れる組があるんです「今年ももう出来ていますよ、今年のはスピードがあります。皆微妙にずれていますけど・・・」

皆楽しんでるんだな~。わがクラスはのんびり組なので何時も歌いたい歌を先に取られたり人の影を踏んでいます。

テーマを決めて歌を決めます。私達のテーマは「人の一生」です。「こんにちは赤ちゃん」「子守唄」「学生時代」「ここに幸あり」です。それぞれが長いので人生ダッシュです。口の悪い校長先生が「誕生から墓場までですか」って・・・。上手い!駄洒落の天才!

何だかよその組が良いようで心配です。私は随分出ていませんでしたが、今年の「新春歌祭り」から出ています。やっぱり舞台は愉しいです。みんなの共同作業です。やはりクラスの対抗意識無きにしも非ず。大器晩成型のわがクラス追い込みを掛けますよ、よちよちと・・・。何事も過程が楽しみなんですよね。

「再デビユーした森昌子さん下手になったね~。ピッチがずれている。衣装も野暮ったいし・・・」とのりこ先生。実は私もそう思っていたんです。「悲しみ本線日本海」「越冬ツバメ」だって昔の様に声に伸びが無い、あんなに上手だったのに・・・って。「地声で歌う人は年取るとあ~なるんですって、淡谷のり子さんの様な声の出し方だと何歳になっても歌えるんですって」。のりこ先生と昌子さん、百恵さん、淳子さんと同い年なんですって、石川さゆりさんとは生年月日まで一緒なんだって。驚いた、のりこ先生の方がず~とお若い。お子さんも小さいど・・・

だんな先生昨日100キロの大台に載ったんだって。子供さんが小さいから健康の為にたばこ止めたら、どんどん太りだしたって。のりこ先生も良い体格「子供が一番良く食べるのに細いから困る・・・」って。そういえば私が入学した8年前「食べてやせるラーメン」ってのを夫婦で食べていると言っておられてけど、効果なかったんだ。100キロだと「靴の紐が結び難そう、お腹が閊えて」「結んであげら?」と「そんなんしない」とのりこ先生。駄洒落の校長、噺家顔負けののりこ先生何時も愉しいレッスンを有難うございます。大笑い教室愉しいで~す。




















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藤田嗣治展

2006年07月14日 | 一寸そこまで
              ゴーヤ
        はるみさんから送られてきました。
      野菜のお花はあまり知られていませんから
        珍しいので使わせていただきました
     食物の花は白か黄色の様ですが、何か意味あり?

京都国立近代美術館に藤田嗣治展を見に行ってきました。最近まではJRと阪急の運賃格差が大きくて、JRで大阪まで出て、阪急に乗り換え、バスと行っていましたが、JRの安売り切符が出てからはJR一本で行く事が多くなりました。一つでも乗換えを少なくしたいからです。少しの運賃の差はあってもJRのほうが早いです。

座りたいので尼崎で「新快速」を待ちました。生憎空席はありません「大阪で空くわね」と立っていますと、その席の男性が「すわられますか?」と席を譲ってくださいました。嬉しい反面、ちょっぴり寂しさも・・・あ~ぁ席を譲られる年になったかと・・・

美術館に到着。「先昼にしようか?」まず腹拵え「岡北」へまっしぐら。此処の「お蕎麦」が好きなんです。何時もは「ざる蕎麦」だけなんですが、今日は暑い(実際35度、今年初めての暑さだった)体力の消耗を考えて「天ざる蕎麦」にしました。之が又美味しい、余分な衣が付いてなくて熱々で美味しい。食べ終えた途端に「見た後はあそこでお茶しよう」食べに来たのか見に来たのか一人苦笑。

藤田嗣治さんの作品はそんなに好みではありませんが、デコちゃん(高峰秀子さんの随筆を読んでいると藤田さんの話が時々出てきます)の肖像画が出ているかと楽しみで行きましたが、残念ながら出ていませんでした。

近年私達は「音声ガイド」を借りるようにしています。借りる人も随分増えました。荷物をロッカーに預けました(あけると100円が戻ってくると言うタイプ)だんだん体力的にも身軽でも疲れるようになりました。

藤田さんが宗教画や戦争画を書いているとは知りませんでした。「サイパン島同胞臣節を全うす」では沖縄の「万歳岬」の様にやはり身を投げる女性等、悲しい姿の描写。アッツ島玉砕では兵隊さんの悲しい最後、暗いくらい色彩で目を凝らさないと判別付かないくらいの暗い絵。まだ読み進んでいないが「硫黄島の散るぞ悲しき」もこんな状況であったろうと思いながら見ました。

主人も私も二人とも全体的に藤田嗣治の絵は好みではありませんでした。4階の常設館で藤田嗣治さんの小品が3点ありましたが、それの方がまだ引かれるものがありました。その時代、住む場所、心のままに作品がくっきりと変化を見せるのが嫌なんだな~。別人の作品のように思えて。でも好きな方が圧倒的らしく目録や葉書や一筆箋の売り場は黒山の人だかりでした。私は眺めるだけで退散・・・。

私はやはり洋画より日本画が好みかな~。常設館には日本画で知らない女性画家の作品が多くありましたが、国立近代美術館に収められるぐらいですから、かなりの人なんでしょうが、全然知らない名前が多かったです。

日本画といえば上村松園、松篁、淳之三代の作品を収めた「松伯美術館」はまだ行っていない事に「神戸花鳥園」で思い出した。父松篁は鳥、子淳之は動物が専門?。

今年の橿原神宮の大絵馬も確か淳之の「狗」だったと思う。新年の2日家族揃って初詣は橿原神宮と決まっている。はじめは夫婦二人だったから20年ぐらい続いていると思う。何故橿原神宮か?、それはテレビで見た大絵馬を一度見たいという私の好奇心から始まった。来年は私の干支「猪」です。何方がどんな「猪」を描かれるのか今から楽しみにしている。

「猪年」は荒れる年のようです。私の生まれる12年前「関東大震災」猪年。近くは「阪神淡路大震災」も猪年です。来年は何事も無ければと思っています。「絵画」の話から又流れ流れて「大震災」へ。この辺でお開き。




















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お買い物

2006年07月12日 | 今日この頃
           ストレプトカーパス
         神戸花鳥園で見つけました
       葉の葉脈から子葉が出て増えるので
     あやこさんと葉が落ちてないかと探しました
        無かった、一鉢1,000円はたかい!

印刷インク、化粧品、パンを買いに大阪に出ました。

ヨドバシデンキに行きました。新しいプリンターに変えたのでインクも初めて買います。どうも私の器機のが無いようなのでプリンターの売り場に移動、そこで見つけました。「やっと新発売6色組み!」の前に現物ではなくカードがありました。そのカードを持って行くと品物が渡されると言うあの方法です。

先ごろからインクのカセット再利用が言われていましたが、今日行きますともっと進んで洗剤のように入れ替えるようになってきたようです。これは良いことです、価格がぐ~んとお安くなっていました。私の機種はまだのようでした。残念!

今日は時間が無かったので、色々見て廻れませんでしたが、色んな新しいものが出ているのでしょうね。品物の前に立っている男性の顔を盗み見ますと中年男性でも少年の様な顔をして見ていますね。「こんなのが出たか~」と・・・欲しいんでしょうね。女の人が服を見つめるのと同じですね。

ニュースで言っていましたがウインドウ98とM Eのメンテナンスを終了するそうですね。ですからお使いの人は色々と不自由になるようです。学校で使われているものの何割かはまだこれらだそうで、買い替え、またはソフトの入れ替えには数千万掛かるそうです。私は去年の8月に買い換えたのですがそれまではMEで、それ以前は98でした。

移動して化粧品売り場へ・・・。先日の電話で「傘」を頂けると言うので、ついでに一品購入。傘は真っ黒で白いレースの縁取り、骨もしっかりしている晴雨兼用傘です。去年クリーム色の日傘を買いましたら、布の性質でしょうか、暑くて堪りません。黒を差している友人に聞きますと「涼しい」と言うので欲しいと思っていました。さすが化粧品会社の品だけにセンスは良いです。初めての日にバッグを頂きましたがそれも気に入っています。

こんなに品物を頂かなくても値段を下げて欲しいと思うのですが、やはり女心をくすぐるのはプレゼントなんでしょうね。やはり嬉しいことは嬉しいんです。

美容員さんの視線を感じてはいたのですが、にっこり笑って言いました「お化粧のお直しいたしましょうか?」これって「下手ですね~」ってこと?「時間がありませんので又・・・」「今度はお時間の余裕を持ってお越しくださいませね、お直しいたします」と追い討ちをかける。普段は相変わらずスッピンで生活しているので余り上達していないらしい。自分ではやや満足なんだけど。

こんな事考えたんです。昼から何かの集まりに出る時、何か一品買うとして、時間の余裕を持って行き、お直ししていただいて、マスカラもつけていただきお目目パッチリにして頂いてからから、出席するってのは如何でしょうかしら・・・

  ☆ 散るぞ悲しき(硫黄島総指揮官・栗林忠道) ☆

栗林さんのお話で竹村健一さんが是非読んで欲しい本だと推薦しておられました。
「硫黄島は初めから絶望的な戦場だった。万に一つの勝ち目も無い、島には飛行機も戦艦も無く海上空上はゼロに等しい。陸上戦力も日本軍約2万に上陸してきた米軍約6万、しかも後方には10万の支援部隊がいた。日本軍の玉砕は自明の事で、少しでも長く持ちこたえて米軍の本土侵攻を遅らせるのがたった一つの使命だった。『5日で落ちる』といわれていた硫黄島を36日間持ちこたえた指揮官が栗林総指揮官だった」

私は戦前生まれとはいえ「戦争を語り継ぐ」と言うより「戦争の話を聞く立場」だと感じている。この本を読んでお勉強します。




















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