ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

昭和天皇のお言葉メモ

2006年07月28日 | 新聞から
             ナデシコ
     花の割には細い茎から可愛い花が付きます
      私、幼稚園年少組「ナデシコ」でした
          遠い昔の思い出です

ジムに行く道の「浜木綿」が一昨日まで蕾だったのが開いていた。「わ~咲いてる」よく見ようと傍に行くと女の人が出てきた。「綺麗に咲きましたね。蕾が膨らんできたので楽しみにしていました」と声を掛けた。それからが大変、花談義に話が弾んで、あの花このはなと話が尽きない。

小ぶりのシクラメンが一杯葉をつけている「シクラメンは葉の数だけ花が咲くそうですから楽しみですね」「冬しかさかないから・・・」と葉元を掻き分けた彼女が「アラ!蕾がある」手元を見ると無数に蕾が上がっている「もう少し日陰に移されたほうが良いのでは?葉が巻いていますね」「本当そうですね、夏でも咲くんだわ」と鉢の移動。此処でも良い花を家の前に出しておくと盗られるらしい。今度はこのシクラメンが咲くのを楽しみに歩いていこうと思った。

新聞の投書欄にこの件に関してのものが目に付くが、今日の投書は我が意を得たりであった。「天皇の責任を忘れ去れない」と和歌山の92歳の男性。

前略・・・そもそも靖国神社とはそれほど社会的意味を持つのか。国の為死んだというが、全国の空襲で死んだ市民も旧満州の野に果てた乳児も皆、国の為に死んだ。軍服を着た者だけが国のために戦ったわけではない。近代の戦争は総力戦だと国が言ったではないか・・・中略・・・私も軍服を着せられ、友を失った。しかし戦友は靖国に居ないと思っている。戦争に借り出されて殺された者が、殺したやつらと同じ屋根の下にいられるはずが無い。彼らは皆、故郷の自分の家の墓に戻っている。会いたければそこに詣でればよい。私は3人の戦友の墓に詣でる。天皇がA級戦犯を如何思おうと問題ではない。天皇自身の戦争責任を忘れ去るのはまだ早い。人間の道義に時効は無い。

全国の空襲で死んだ市民も・・・の件は何時も私の心の内にあったものだ。敵と直接戦ったわけではないが、受身では在るがその死は兵隊と同じであると考えている。いつか主人に問うた事がある「何故軍人だけが靖国神社に祭られるのか、空襲で死んだ人は何も無いのか」「軍人の死と一般人の死は違う」と言う。軍国主義バリバリの少年だった主人に問うたが間違いと、それ以後その件は口にはしなかった。この記事を読んだ時、「そうだそうだ」と思った。この記事の人は徴兵の赤紙で軍服を着た人に違いないと思った。職業軍人は自ずからの意志で戦地に赴くのであるから、靖国問題も又違った意見を持つに違いないと思う。

故郷の墓とあったが、田舎の方に行くと「忠臣XX少尉(死亡時の役職が入る)の墓」とか「忠臣慰霊塔」とかを眼にする事があった。「戦死」はその家、その村の名誉であるからこんなに馬鹿でかい塔が建てられたのだろうと思っていた。そうなれば魂は故郷に祭られている気もする。遺族の方も普段はわが墓で故人を偲ばれていて、分骨された場所の様な気持ちで靖国神社に参拝されるのではないだろうか。
遺族の人の投書がないのでお気持ちが解らないが、聞いてみたいものである。

戦争で親を亡くした子は浮浪児と呼ばれて、生きていく為に世間から爪弾きされることもしていた。終戦後3年経った昭和23年9月7日「浮浪児根絶緊急対策」が国会で決定された。浮浪児の定義:一定の住所が無く諸所を浮浪する児童は勿論の事就学義務があるのに学校に登校しないで諸所を浮浪する児童も含める」とある。
この子達はほっておかれた。3年も経って手に負えなくなって初めて目を向けられたのである。

戦災孤児(戦争で両親を亡くした子供)とは区別されている様だが、どの様な定義の基で分別なされたのか知らない。私達はその世代に属するわけで同期生にも寮で共同生活している人達が居た。もう何十年も経たない内に老いも若きも「戦争を知らない子供達」だけの時代になるだろう。日本は戦争放棄しているのだから「浮浪児」「戦災孤児」の言葉も死語になるだろう。いや、先の事でなく、この言葉の意味を知る人は今、既に希少価値かもしれない。




















コメント (4)
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