ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

集団疎開(3)

2006年07月20日 | 思い出話
            スペアミントの花
        すごい繁殖力、切れば切るほど群生する
         ハーブティーにも、飽きたし・・・

集団疎開とは戦争が激しくなって子供を田舎の親戚に預ける人が増えたのですが、田舎の無い人もいるわけです。その人の為に学校が纏めて疎開に行かせたんです。
初めは3年生から6年生でした、途中から姉妹や従兄弟のいる人は良い事になり、私達の所にも1、2年生がやってきました。よく泣いていましたね。

初めは私も縁故疎開していたのですが、その家は5人預かっていましたね。他の子は直ぐ田舎の生活になじみましたが、一人娘でおじいちゃんに護られてわがままに育っていたからでしょうか私は駄目でした。帰りたいと手紙を書きました。それで
集団疎開の話が出た時母が申し込んだのです。

疎開の荷物(行李一つと決められていた)の中には1冊のアルバムが入っていました。B-29の焼夷弾で家は丸焼けで何も残っていないのに、写真だけは残ったのです。誕生の写真から3年で疎開に行くまでの、色んな記念の写真は皆残っています。母の心配りに感謝しています。写真がなければ覚えていない私の人生のページがあるからです。

疎開して6ヶ月ほどした時です。おじいちゃんが突然現れました。よっぽど私に会いたかったのでしょう。その頃は乗り物の切符は中々買えない時代でした。歩いてきたと言うのです。朝は暗い内に家を出て、山を一つ間違ったと言って着いたのは夕方でした。電車の線路を辿ってきたそうです。80歳の老人がです。

先生は「おじいちゃんとお話なさい」と言いました。と言っても修養道場ですから大きなお部屋が一つあるっきりです。おじいちゃんと私は玄関の上がりかまちで二人並んで暫く居ました。私は戸惑っていました。嬉しい事は嬉しいのですが、それを言葉に出せませんでしたし、その反面『自分ひとりだけ』と言う事に気兼ねの様な感情もあり、早く帰ってくれないかな~と言う気持ちもありました。先生は向いの男子寮に泊まっていってくださいと言って下さいましたが、1時間も居たでしょうか帰って行きました。それがおじいちゃんと私の最後の思い出でした。それから3ヶ月もしない10月17日おじいちゃんはこの世を去りました。

母が言いますには、その頃は焼き場も一杯で、順番待ちだったそうです。それも自分達で焼き場まで運んで行かなければならなかったそうです。棺桶なんてありません。大八車を借りてそこに遺体を載せ、焼いてもらうべき薪と共に運んだと言っていました。薪を持っていかないと引き取ってくれなかったそうです。その上遺体を積み上げて焼くんだそうです。人の下にならないようにおんぼ(遺体を焼く人)に『心ずけ(袖の下)』を弾んだので一番上に置いてもらったと言っていました。

今でも時々思います。おじいちゃんが来てくれた時、何故喜んで上げなかったのだろう。おじいちゃんはどんな気持ちで暗い夜道を帰って行ったのだろう。寂しい気持ちだっただろう。もしかしたら男泣きに泣いていたかも知れない。今でも私は後悔し、詫びたい気持ちで一杯です。

神戸から加古川まで40キロ程あります。山を一つ間違えたと言っていましたから50キロ位歩いたかも知れません。孫に会いたい一心とはいえ、80歳の身にはきつかったでしょう。私が遍路で歩いている時は一日約25キロ前後が目安でしたが、宿の都合でどうしても40キロ以上歩かなければならない日がありました。
そんな時は朝は暗い内に出ても着くのは夕方でした。おじいちゃんは40キロ歩いて1時間もしないうちに又トンボ帰りです。戦後間もなくの事とて十分な食べ物も持っていなかったでしょう。おじいちゃんが着物を絡げて帰っていく後姿、目に焼きついています。愛って凄い力を発揮するものですね。おじいちゃんの愛を一杯貰った私は幸せです。愛を貰って育った私は又愛を一杯持っているような気がします。



























コメント (6)
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