ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

硫黄島

2006年07月19日 | 気にかかる
         木立性ベコニア(ピンクレディー)
      親か姉妹かの「ミセス・橋本」が寂しい花付き
       それに比べ今年は此方が吃驚する位の多花

「散るぞ悲しき」を読み進む内に、後わずかと言う所で、思いもかけない文章が目に付いた。私の運命を変えた昭和20年3月17日神戸の大空襲に焼夷弾を落とす指揮を取った人の名が記されていたのである。神戸に焼夷弾により無差別爆撃を立案し、実行した司令官の名は「メイル少将」その上もし「硫黄島」が米国の手中になければ、彼の飛行機は基地まで戻れなかったかも知れない、「硫黄島に」不時着したので危うく命が助かったというのだ。

思いがけない事で硫黄島と神戸の大空襲と私の運命と言う見えない糸の繋がりが見えてきた。知ったからと言ってどう言う事ことでもないが、3月17日の神戸大空襲に纏わるお話を知った事はやはり得がたい事だったと思う。読書はこれだから止められない。

神戸の爆撃に参加したB-29の内13機が硫黄島に不時着して助かっている。その硫黄島の滑走路は、その当時もはや日本には(硫黄島に援軍としてくる)飛行機等無いのに、米軍の上陸直前まで飛行場の拡張工事がなされた。軍部中央の陸海軍の対立(縄張り的主義)の為、硫黄島の防備方針が一本化されなかったゆえである。

飲み水が無く、雨水を溜めて一人一日水筒一杯分(後にはそれすらなく、草の露に大喜びした)と言う過酷な条件の元で造られた滑走路を利用したのは日本の飛行機ではなく、米軍機です。終戦までに不時着したB-29は延べ約2400機で約27000人の搭乗員の命をすくった。不時着だけに使われたのではない、完全に陥落した硫黄島には後はB-29を掩護する多数の戦闘機は勿論、B-29も配備された。日本本土への距離が短くなった為に米軍機は日本の何処へでも自由自在に飛び立ち、爆撃する事が出来るようになった。硫黄島を我が物とした事で空路はアメリカの勝利への道となった。

硫黄島総指揮官 栗林中将(死して2段階特進大将となる)の辞世3句のうちの一句

   国の為 重き勤めを 果てし得で
        矢弾尽き果て 散るぞ悲しき

大本営は「散るぞ悲しき」を女々しいという事で「散るぞ口惜し」に書き換えて発表したんですよ。「辞世の句」を書き換えるなんて、軍隊ってそういうところなんでしょうね。

ほんの題名はこの元の歌から取られたものです。

平成6年2月始めて硫黄島に行かれた今上天皇が詠まれた御製。

   精魂を込め戦いし 人未だ
        地下に眠りて 島は悲しき

天皇陛下は硫黄島を訪れられた時は、色々と硫黄島についてご勉強されて行かれたと思う。だから「悲しき」が「口惜し」に書き換えられたこともご存知であろう。全てを含めてお心として「悲しき」を使われたのであろうか・・・




















栗林
コメント (4)
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