非国民通信

ノーモア・コイズミ

無意味な二択

2013-07-19 00:03:17 | 社会

 かの小泉/竹中体制下では「経済的に豊かで格差の大きい国か、貧しくとも格差の小さい国か」という二択が叫ばれたものです。実際のところ、ブラジルのように経済成長の中で格差を縮小していった国もあれば、日本のように経済を凋落させていく中で格差を大きく拡大させた国もあるなど、上記の二択は至って非現実的と言えます。ところが小泉/竹中体制の信奉者ばかりではなく、それに批判的なつもりでいる人もまた、この構造改革の世界観――経済的に豊かで格差の大きい国か、貧しくとも格差の小さい国かという二択――を全くの鵜呑みにしている人が多いように思われてなりません。

 上記は朝日新聞社のサイトからの引用ですが、正答は一つ、「このような二択には意味がない」でしょうか。言うまでもなく経済競争力を高めて社会的格差を縮めた道もありますし、近年の日本が辿ってきたような経済競争力を犠牲にしながら格差を広げてきた国もあるわけです。せめて二択ではなく四択なら意味がありますが、ここで挙げられたような二択は設問者(朝日新聞社/東京大学谷口研究室)が小泉改革の世界観を無批判に受け入れていることを示すのみです。むしろ、上記の設問にAもしくはBとハッキリ回答した候補こそ現実に向き合えない小泉路線の追従者として、投票を避けるべき対象であるとすら言えます。

 ……小泉構造改革もさることながら、ある事柄に反対のつもりでいる、批判的な風を装っている人ほど、むしろ根っこの部分では相通じているのではないかと、そんな気がすることも時にあります。例えば自己責任論などどうでしょう。一見すると自己責任論には否定的な人が、その実は「自分のことは自分でやれ」的な主張を公然と繰り返しているケースは多々あるのではないでしょうか。「個人」レベルの自己責任論には脊髄反射的にダメ出しする一方で、「地域」レベルではガチガチの自己責任論者だったりする、そういう人も山のように見てきました。

参考、山形よ、お前もか

参考、私はみんなに入りません

 今年の4月、福島県が災害公営住宅の建設で出る土の処分を山形の業者に委託したところ、山形県の行政指導によって受け入れを阻まれるという一件がありました。曰く「原発事故による放射性物質の有無にかかわらず、福島の土の持ち込みは住民に不安を与える」とのこと。これまた完全に差別であり、根拠のない純粋な嫌悪感に基づく排除である、被災地復興の妨害者でもあると言えますけれど、まぁ問題をすり替えたがる人もいて、中には「福島県のことは福島県内で処理すべきだ」云々と自己責任論を持ち出す人も目に付いたわけです。

 しかしまぁ、「○○のことは○○で」という言い方は都合の良いマジックワードです。「個人のことは個人で解決すべき」と説く人もいれば、「○○県のことは○○県内で処理すべき」という叫ぶ人もいる、間を取れば「○○市のことは○○市内で対応すべき」とも言えますし、「○○国のことは○○国内で解決するのが筋」とも言える、一見するともっともらしいようでいて、実はトンデモに過ぎないのではと私には思われてなりません。

 福島県の復興住宅建設で出た残土の処理を山形県の業者に委託するのがダメというのなら、では酒田市で出た残土の処理を米沢市の業者に委託するのはOKなのでしょうか。酒田市のことは酒田市内で解決すべき――と文脈から切り離されれば奇妙に聞こえるかも知れませんけれど、福島のことは福島県内で云々という主張と、果たしてどこまで異なるのでしょうか。逆に酒田市の残土を米沢市に持ち込むのがOKなら、会津若松市の残土を米沢市の業者に送っても問題はなさそうです。でも、ある種の人々にとってはそうでなかったりするようで……

 単純に面積だけを見れば、日本の国土はアメリカの州一つくらいでしかないとも言えます。そんな日本でも「地域のことは(当該の)地域で賄うべき」的な発想に一定の盛り上がりが見られるわけで、何なんだろうな、と。カリフォルニア州の電気をカリフォルニア州で充足するのも日本の電気を日本で充足するのも、スケール的にそう大きな差はなさそうな気もしますが、特定の地域で自己完結していることを「正しい」とする人が結構いるのではないでしょうか。電力に限らず食糧供給なんかでも、そうした風潮はありますかね。

 磯野家の安全は磯野家で責任を負うべき、あるいは世田谷区の食糧供給は世田谷区内で自足されるべき、東京都の電力は東京都内で賄われるべき――ある単位での自己責任論には否定的な人が、少し対象範囲を広げれば頑迷な自己責任論者として振る舞っている、そんなケースも少なくないように思います。私などはもうちょっと広い範囲で、むしろ地域や国にとらわれない範囲で助け合っていい、頼りあって言い、持ちつ持たれつであっていいし、それこそが安全保障だと思うところですけれど、ある特定の範囲で完結していることに「正しさ」を見出している人が結構いるような気がするわけです。

 

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