非国民通信

ノーモア・コイズミ

何のための教育か

2011-09-28 23:36:09 | 雇用・経済

高校奨学金:790億円不足へ 回収率想定下回り(毎日新聞)

 文部科学省の交付金で都道府県が実施している高校奨学金事業で、貸与した奨学金の回収率が想定を下回り、このままでは31年度までに11府県で計約790億円の資金不足に陥ることが会計検査院の調査で分かった。検査院は22日、奨学金の徴収を債権回収会社に委託するなど適切な措置を都道府県にとらせるよう文科省に改善を求めた。
 
 この事業は高校生らを対象に月1万8000~3万5000円を無利子で貸与する制度。生活費にも充当でき高校授業料が無料化された10年4月以降もニーズは高いという。
 
 検査院によると、文科省は10年度までに各都道府県に計約1411億6360万円を交付。文科省が想定した貸与件数や回収率であれば、資金不足にならず事業を継続できる計画だった。
 
 検査院が今年、20府県を抽出して調査したところ、文科省の想定した回収率を下回る自治体が12府県判明し、貸与件数も増加傾向にあった。この状況が続いた場合、検査院の試算では31年度までに福岡、神奈川、京都など11府県で資金不足になるという。福岡県は約321億円、神奈川県では約136億円不足し不足分は各県が負担することになる。各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因とみられる。
 
 検査院は「教育の機会均等に寄与する奨学金制度を守るため、早急に回収率を向上させる必要がある」と指摘。文科省は「都道府県に指導していきたい」としている。

 さて、高校奨学金事業の回収率が想定を下回り、資金不足に陥る見込みとのことです。とはいえ見出しに掲げられた「790億円不足」とは、調査対象となった20府県の内、不足が生じている11府県だけを集計対象とした数値のようです。残る9府県では僅かなりとも余剰が生じていることになりますので、全体で見ればそこまで深刻な資金不足ではないはず、掲載誌が意図的に煽っているところもあるでしょう。文科省の想定した回収率を下回る自治体が12府県ということで、残る8府県は想定した回収率を上回っている、要するに特定の自治体の問題であって全国的な問題かというと、その辺は色々と疑わしく思われるところですし。


日本の教育復興を支援…OECDが異例の声明(読売新聞)

 経済協力開発機構(OECD)は13日、加盟34か国の教育費などを分析した結果を発表した。
 
 2008年の国内総生産(GDP)のうち、日本では教育に対する国や自治体などの支出が占める割合は3・3%。OECD平均の5・0%を下回り、データのある31か国中最下位だった。また、日本では、子供1人にかかる大学教育費のうち、国や自治体ではなく、家庭が負担している割合は66・7%で、OECD平均の31・1%を大きく上回った。日本では教育に対する国や自治体の支出が少ないため、家庭が多くの教育費を負担せざるを得ない実態が浮かび上がった。

 ブルジョワ新聞の記者は奨学金の資金が不足する理由として「各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因とみられる」などと書いていますが、その辺は掲載誌の認識の程を象徴する以外のものではないように思います。結局のところ、日本の場合は教育に対する公的支出が極端に少なく、本来であれば給付されてしかるべき奨学金が貸与という形にしかなっていない、実質的に奨学金ではなく学資ローンと化しているために回収率が問題となる、かつ奨学金の規模も小さいが故に資金も枯渇しやすいわけです。教育に関する公的支出をOECDの平均ぐらいには積み増さない限り、こうした問題は解決されるはずがありません。

 教育分野への公的支出の少なさではなく資金不足や回収率が問題視しされ、挙げ句の果てには「各府県が十分な収支予測を実施していなかったことが原因」などと言い放つ人もで出てくるのは、いったいどうしてでしょうか。公的支出そのものを嫌う、自己責任の国だからかも知れません。教育が未来への投資だと理解されていないところもあるでしょう。そして投資した奨学金が回収されないことを騒ぎ立てる意識はあっても、投資された教育の成果が活かされないことが問題視されることは少ないわけでもあります。

 本来なら、教育水準の高さは国や社会にとっての強みのはずです。しかるに我が国では教育への公的支出を重荷と見なすばかりで、教育水準の高さを活かそうとする発想が大きく欠けています。確かに、相応の学校歴があれば新卒時の就職には有利になるでしょう。しかるに、社会全体で見れば高等教育修了者の就職競争を激化させるばかりで、採用される人の数を増やすものとはなっていません。進学すれば個人の就労機会は増えるとしても、その分だけ他の人の就労機会が圧迫されるだけなのです。教育は個人の役に立っても、社会全体の役には立っていない、それが日本社会の現状です。だからこそ、社会に寄与しない、個人の役にしか立たない教育は社会にとっての重荷であり、自己責任の対象にもなるのでしょう。

 少子化が進むと、その分だけ教育リソースが集中して投下されることになります。親の資産にも限りがある中で、子供が5人いた場合と1人しかいなかった場合、当然ながら子供に与えられるものは異なってくることでしょう。教育リソースを独り占めすることが出来る少子化時代の子供は必然的に、高等教育を受ける機会にも恵まれます。そして高等教育を受けた少子化時代の子供が高付加価値産業に就いて高収入を得ることで、少ない人数でも高齢者を支えることが可能になるのですが――高等教育を受けても高収入には結びつかないのが我々の社会だったりするもので、そこに齟齬が生じているわけです。

 企業は新卒者の学歴(学校歴)までは気にするものの、学校で身につけてきたものを活かそうとしているかと言えば、その辺は甚だ微妙なところです。企業が学生に要求するのは「コミュニケーション能力」みたいな曖昧な代物であって、これでは大学や高校側はどうしようもありません。仕方がないから、就職するための訓練ばかりが行われる始末です。そして入社が決まっても、今度は研修と称して自衛隊に体験入隊とかが待っているわけです。そうでなくとも日本社会には「学校で教わったことなんて現場では役に立たない」みたいな信仰が根付いてはいないでしょうか。結局のところ高等教育とは就職に当たって箔を付けるためのものでしかなく、社会に寄与するものとはなっていないようです。

 少子化で教育リソースが集中投下されるようになったとか、高卒でも仕事に困らない時代が終わって「就職できないから」進学する人が増えたとか、いずれにせよ高等教育を受ける人は増えてきました。ならば、産業界もまた社会の変化に合わせて、教育水準の高さを活用する方向へと変わっていかねばならなかったはずです。しかるに、相も変わらず製造業至上主義が幅を利かせ、高等教育修了者を新興国の単純労働者と競わせてはいないでしょうか。旧態依然とした日本経済にとって高等教育修了者の増加は宝の持ち腐れとしかなっていないようです。むしろ、新興国に対抗すべく低賃金労働者を確保する上での障害ぐらいにしか思われていないフシすら窺われます(大学生が多すぎる論とか)。せっかく教育という投資を行って高等教育修了者を増やしても、それを用いる能力を持たない社会であるが故に、砂漠に水を撒くが如きことにもなってしまうわけです。

 

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16 コメント

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滅び行く高等教育 (不備)
2011-09-29 01:16:07
 炯眼が光る名記事ですね。ご指摘の通り、「宝の持ち腐れ」も甚だしいです。学生さんたちを見ていると、真面目で、礼儀正しく、熱心で、懸命に就職活動をしています。能力が劣っているとか、学力が低いとか、ある部分ではあるのかも知れません。しかし、コストカットのような成果以外、前向きでまともな経済的成果をずうっとあげられていない無能な「一流企業」群に比べれば、大学では余程優れた人材が育成されていると思います。産業界にその人材を活かす能力がないからこそ、人材需給のミスマッチが起きているとも言えますね。

 危惧すべきは、高等教育の場でもコストばかり重視したり、企業側の都合に合わせすぎたり、という点です。高等教育機関の学生が、本来身につけるべき幅広い教養や、物事に対する見識のようなものは、科目にせよ余裕にせよ、失われつつあります。「即戦力」に結び付きそうな「技能」「資格」の習得・取得ばかりを推し進める産業界の身勝手な要求と、それを鵜呑みにする高等教育機関の不見識は、畢竟、送り出す人材の質を下げることに繋がるわけです。

 「学生が学ぶ」ことにもっと国家行政が金銭含めて支援しなければなりません。学ぶ時間・経済的余裕・教える教員、今や全て奪い去られつつあります。今はまだ以前の遺産で、高等教育機関は優秀な「宝」を送り出せています。しかし、このまま社会が高等教育の恩恵を活かそうとせず、高等教育そのものを軽視・嘲弄して「教育に費用を費やしてもどうせ無駄だもの」という認識が広がるに任せてしまうのは、自ら滅亡を呼び込んでいるようなものです。
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設計図なしの執行 (ヘタレ一代)
2011-09-29 13:12:11
教育だけに限らず、「社会」そのものの具体的な設計をすることを放棄して、禁欲や道徳等といった抽象的で(しかも一貫しておらず、その時々で変化する)あやふやな物ばかり要求することをする人が多い気がします。だから長期計画もなく、身近な問題でも的外れな対処しかできないのでしょうね。

また教育を受ける側である我々学生も、社会全体をどこに向かって行かせるのか、そのためには教育はどういうものにするか、そのためには何を学ぶかを考えるよりも、今自分が生き残ることしか頭になく、入学(または入社)術や処世術ばかり身につけようとしているため、まるで他人事のように教育をとらえているところがあります。

教育(もちろん民主主義社会の目標達成の為という意味で)を真剣に考えている人が少ないことが、このような事態を招いているのかもしれません。
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Unknown (amanojaku20)
2011-09-29 19:31:33
>>企業は新卒者の学歴(学校歴)までは気にするものの、学校で身につけてきたものを活かそうとしているかと言えば、その辺は甚だ微妙なところです。企業が学生に要求するのは「コミュニケーション能力」みたいな曖昧な代物であって、これでは大学や高校側はどうしようもありません。

おかしな話ですよね。それ大卒である事を採用条件にしてる癖して、高卒でもいいんじゃないの?って思える様な能力を求めてるんですから。就職活動が楽な時代なら、「別にいいじゃないか、就職できるんだから」と済ませられたんでしょうけど、今みたいな時代ではこんな採用慣習が温存される事を看過できないですね。教育にかけたコストを殆ど無駄にしてる訳ですから。

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Unknown (yasu)
2011-09-29 20:39:06
教育といっても二つの種類があると思うんですよね。
その社畜育成のための教化教育とまさしく哲学に代表される学育といいますか、自己目的的行為としての教育との二種類の「学び」があると思うんですよね。
管理人さんおっしゃる社会のための進歩的な教育はやはりおろそかにされてます。
就職のための大学というか、とにかく哲学的観照がおろそかにされてるようなきがするんですよね。
やっぱり作文とか論文を書かせる、そういう知の総合点を探る育て方の方がいいと思うんですよね。
やっぱり最近の若い人は自分の言葉を持ってないんじゃないか、だから政治にも行かない。


今の文科省のやり方は絶対ダメです。
荒れしましょうこれしましょうとかそればっかり。
だから論作文が一番いいと思う。
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Unknown (yasu)
2011-09-29 20:46:22
でその自己目的的行為としての学びこそ、日本を変えるヒントがつまっているのではないか。
村野瀬さんおっしゃる政治教育ではなく。(この場合はリアリズムのあるダイナミズムがなければ駄目

それと留学にも助成金を出すとかした方がいいですね。
何しろ保守的で曖昧な発想で周りと群れたがるヘタレばっかりですから、そういうのがいいと思う。
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Unknown (yasu)
2011-09-29 21:04:26
論作文も「私は以下の観点について注目した。第一に~~
第二~~~」みたいに自由に書かせる教育のあり方の方がいいしそうじゃなきゃ面白くない。
課題文を読ませて自由に気づいたことを書かせる。


もうそれしか若者の真の主体性を確保することはできないんじゃないか。
愛国心?あぁ上意下達で進歩がない教育のことね、で捨てればOKです。
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Unknown (非国民通信管理人)
2011-09-29 23:51:50
>不備さん

 とかく学生側を詰るばかりのくだらない論調が幅を利かせてはいますけれど、企業側が人を活かすことが出来なくなっているところも大きいはずなんですよね。しかし、そんな企業側の歓心を買うべく大学も高校も教育のレベルを下げるばかり、ここでも負のスパイラルが見られます。

>ヘタレ一代さん

 教育もまた国作りの一環なのですが、その辺のプランが見えてこないところはありますね。どうにも近視眼的なのは近年の日本の政治全般に言えることではあるにせよ、もうちょっと教育の意味を考えてみる必要があるはずですし。

>amanojaku20さん

 企業が学生に求めるものとは、挙って大学である必然性を感じさせないものばかりですからね。しかるに大卒が前提とされる仕事は多い。そして大学は就職のための資格となるばかりで、そこで学ぶことの意義は薄れるばかりです。

>yasuさん

 まぁ論文を書かせるのは、考えさせるにはいいですけれど国語教育と一緒で「出題者の意図」を考えることがメインになってしまいそうな気もします。相応の社会的土壌がありませんと、当初の意図とは異なる結末を迎えがちなものですから。
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逆説的ですが (不備)
2011-09-30 01:02:29
 産業界としては、「奴隷」が欲しい、というのはあるとも思いますが、それでは結局人材が育たず、企業も社会も衰退するわけで、負のスパイラルそのものですよね。

 確かに、企業側の求める「能力」みたいなものはとてもしっかりできる学生さんは多いんですが、他の方のコメントのご指摘にもあったように、一方で教養や知性の鍛錬となると、からっきし、という部分が昨今の学生さんたちにあるのは確かです(彼・彼女らの責任じゃないんですが)。
 もちろん、大学を出てからそれを学ぶ人ももちろん多いですけど、大学って逆に、効率的にそういう「知」を吸収できる場のはずなんですけどね。

 社会全体が費用をけちっているわりに、高等教育と知という、多額の投資を行ったコンテンツなりリソースなりを活用しない。これって、勿体ないというか、不経済というか。 
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Unknown (yasu)
2011-09-30 15:44:00
間違えをああ、こういう解釈もあるんだぁないしこう間違えたから~~~という理由で「直させる」ことができればゆとりってばかにされることもなかったのにって思います。


上意下達じゃ、駄目なんですよ。
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Unknown (princessmia)
2011-10-02 14:29:37
大学生側も高等教育修了者としてふさわしい学力、教養、知識、技術などを備えていないといけませんね。在学終了者だけの人間が多すぎます。
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