非国民通信

ノーモア・コイズミ

第四章:ウクライナ崩壊

2024-10-03 00:43:15 | 非国民通信社社説

序文はこちら

第一章:キエフ・ルーシの時代からソヴィエト連邦の時代まで

第二章:ロシア帝国、及びソヴィエト連邦の支配者達

第三章:ロシア・ウクライナを取り巻く往年の連邦構成国

 本章ではソ連崩壊後のウクライナと、そのロシアとの関係を中心に振り返っていきます。まず前提として第一章で述べたようにウクライナはソ連時代に領土を大きく拡張しており、①古のキエフ・ルーシでありコサック国家でもあったキエフなどの中央部、②ロシアがタタールやオスマン帝国を斥けて植民していった東南部「ノヴォロシア」地域、③第二次大戦の結果としてポーランドなどの国境をスライドさせる形で版図に組み込まれた西部地域、④フルシチョフの独断でロシアから移管されたクリミア半島と、大まかに4つの異なる歴史を持つ地域で構成されているわけです。

 この中でもウクライナ独立の最初期から問題になったのがクリミアで、早くも1992年にはクリミア州議会がウクライナからの独立を宣言するなど、キエフ政権とは最初から距離がありました。この時点ではロシア側も事態を荒立てることは望まず、最終的にはクリミアに自治共和国としての地位を認めることで一応の決着が付きます。当時はロシアとウクライナの関係も悪いものばかりではなく、このクリミアを除けば決定的な対立には至らない状態がしばらくは続きました。

 しかるにソ連時代は重工業の中心地帯であったはずのウクライナは人口の流出と経済の衰退に歯止めがかからず、プーチンやルカシェンコの元で安定を取り戻したロシアやベラルーシとは裏腹に希望の見えない状況が続きます。こうなると台頭するのが「ナショナリズムによって政治の失敗から国民の目をそらそうとする人々」です。そして徐々に選挙は反ロシアの中部・西部と、中立の東部・南部とで投票結果が二分化されるようになっていきます。

 2004年のウクライナ大統領選挙は疑義の絶えないものでしたが、紆余曲折の末に中部・西部を地盤とするユシチェンコの当選が認定されます。この頃になると選挙は政策よりも地域対立の方が重要となり、中央から西では一応の勝者ユシチェンコが、東部と南部では対立候補のヤヌコヴィチがそれぞれ票を集め、国の東西を綺麗に分割する結果が露になりました。言うまでもなくユシチェンコもウクライナの置かれた状況を改善することは出来ず、最後にはナチス協力者として知られるステパン・バンデラに「ウクライナ英雄」の称号を授与するなど例によってナショナリズムに訴えるものの、結局は国民の信を失い2010年の選挙でヤヌコヴィチに敗れます。


画像出典:2004年ウクライナ大統領選挙 - Wikipedia

 ここで少し時代を遡りますと、第二次大戦期のウクライナにはソ連の一翼としてナチスと戦った人だけではなく、ナチスに協力してソ連と戦った人もまた少なくありませんでした。後者の代表がウクライナ政府から公式に英雄と認定されている前述のステパン・バンデラで、こうしたナチス協力者の称賛については2010年の時点では批判的な評価も少なからずあったようです。しかし2014年以降のクーデター以降、ロシアとの敵対を何よりも優先する西側諸国ではバンデラの評価も次第にホワイトウォッシュされ、ナチズムとの関わりについては目をつぶる傾向が見られます。当然ながらロシアとしてはナチス協力者を英雄と讃えるキエフ政権を道徳面から非難するわけですが、欧米からすればロシアと戦う方こそが正義の味方なのでしょう。

 いずれにせよ2010年の時点ではまだウクライナの政治も救いの余地はあった、結果を残せなかったユシチェンコは前回の大統領選から大きく得票を減らし、反ロシアを掲げる候補から中立路線の候補へと票が動く健全さは見られました。2010年の選挙も2004年の選挙と同様に投票傾向は反ロシアの中央・西部と中立の東部・南部で完全に色分けされてしまってはいるものの、それでも政治の軌道修正を促す自浄能力は僅かに残っていたわけです。

 ユシチェンコに代わって大統領に就任したヤヌコヴィチはEU諸国とロシアとの間でのバランス調整に腐心し、またロシア語を実質的な第二公用語として使用することを認めるなど、東部・南部のロシア系住民との融和を図りました。続いてセヴァストポリ港(クリミア半島)へのロシア艦隊の駐留期限を延長、これはロシアからのガス代の割引とのバーターでもあったのですが、黒海沿岸に勢力圏を伸ばそうとしていたNATO側からは、ヤヌコヴィチが「親ロシア派」と認定される契機になってしまったとも言えます。

 そして2013年末、ヤヌコヴィチ政権がEU側との協定調印を延伸すると、反政府勢力による大規模なデモが発生しました。当初は平和的であったとも伝えられるところですが、これにアメリカのヌーランド国務次官補やかつてはネオナチ組織として認定されていた反ロシア派武装勢力も合流、ヤヌコヴィチが煮え切らない態度を続けている間に首都キエフは占拠され、議会も包囲されるに至ります。反政府勢力に政治的な譲渡を提案するも武装解除を拒否されたヤヌコヴィチはキエフを脱出してロシアに亡命、選挙で選ばれた大統領が暴力によって追放される形となってしまいました。

 この「マイダン革命」などと西側諸国から呼ばれるクーデターは、アメリカ政府高官も関与していたことから速やかに欧米諸国からの信任を得てウクライナの新政権がスタートします。ただロシア語を公用語の地位から外し公共の場での使用にも制限を設けるなど、反ロシアを看板に掲げたクーデター政権の正当性に疑義を呈する人はウクライナ国内にこそ多く、とりわけロシア系住民が多数を占める東部・南部ではクーデターの反対者と支持者の間で衝突が相次ぐことになりました。

 東部ハリコフでは抗議者によって一時は州庁舎が占拠されるも、ここは新政権側の治安機関が強く、比較的短期間で鎮圧されてしまいます。一方、南部オデッサでは反クーデター側の市民が新政権側の武装勢力に襲撃され、逃げ込んだ建造物ごと焼き殺されるという事態に至りました。これはロシアからはジェノサイドとも呼ばれ、殺人犯の調査を要求されているところでもあるのですが、ウクライナ政府は沈黙を続けており10年後の今日も深い遺恨を残す結果となっています。

 一方で元よりウクライナからの独立志向の強かったクリミアは地元議会が住民投票を決定、その結果を受けてウクライナ新政府からの離脱を宣言、しかる後にロシアへの編入を要求します。当初はロシア側にも躊躇が見られたものの、ウクライナの元首相で大統領候補でもあったティモシェンコがセヴァストポリ港の租借に関するロシアとの合意を反故にすると豪語するのを聞くに至り、最終的にはクリミアの編入要望を受け入れることになりました。これを我が国では「ロシアによる一方的な併合」と慣例的に呼んでいるわけですが、いくら何でも実態と違いすぎる政治的なフレーズと言わざるを得ません。

 そして最後まで争点化してしまったのがドネツクとルガンスクの2州で、当初は中立派が支配的でありロシアとしても中立派勢力の巻き返しを期待するところがあったのですが、そのリーダーであったヤヌコヴィチが早々に国外脱出してしまった後は体勢を立て直すことが出来ず、クーデター政権に対して何ら有効な手段を打つことが出来ないまま時間が経過してしまいました。こうした中それまでは主流派になりきれなかった親ロシア派が決起、議会を占拠してそれぞれ「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」の建国を宣言し両州で主導権を握るなど、事態はロシア側の思惑を超えた方向に進みます。

 軍港として確保が必須であったクリミアとは異なり両州の保有はロシア側のメリットに乏しく、両共和国は当初ロシアからも冷淡な扱いを受けていました。しかし両共和国はキエフ政権の差し向ける軍勢を何度となく斥け自力で地盤を固めていきます。そうなるとロシア側も期待外れの中立勢力に見切りを付け、親ロシア派勢力の後ろ盾として振る舞うようになっていくわけです。ただ2022年までロシアの支援はあくまで軍事的な圧力ではなく外交の範囲に止まっていました。ドネツクとルガンスクの住民にインフラや年金を支給してこそいたものの、ロシア軍が直接の介入を始めるまでには8年の月日を要した、この点は認識されるべきでしょう。

 一方、2014年4月には当時のアメリカ副大統領であったジョー・バイデンの息子であるハンター・バイデンがウクライナのエネルギー企業であるブリスマ・ホールディングスの取締役に就任します。しかるにブリスマ・ホールディングスには脱税などの不正疑惑が多々あり、取締役であるハンター・バイデンも当然ながら検察の捜査対象となりました。そこで父ジョー・バイデンはウクライナを訪問して検事総長の罷免を指示、息子ハンターの捜査を終了させます。

 この後アメリカで政権交代が起こるとトランプはウクライナ政府へ秘密裏にバイデン親子の不正の捜査を要請、これが明るみに出たことで逆にトランプが弾劾の対象になったりもしました(世に言う「ウクライナ・ゲート」疑惑)。宗主国として傀儡国家の人事に介入することは当然の権利として問題視されるものではありませんが、それを政敵の追い落としのために利用する、というのはアメリカの倫理としては許されないことであったようです。

 そしてクーデター後のウクライナでは二度の大統領選挙が行われました。2014年は反ロシア強硬派のティモシェンコを、相対的に穏健派と見なされていたポロシェンコが破って当選します。しかし「ナショナリズムに訴えることで内政の失敗から国民の目をそらす」流れは変わっておらず、当選後のポロシェンコは反ロシアに傾倒、ついにはNATO加盟を目指すと憲法で定めるに至りました。一度は停戦合意が結ばれたはずのドネツク・ルガンスクの独立派との内戦も継続するなど、ウクライナ政治は引き続き絶望的な状況であったと言えます。

 そんな状況を国民も危惧したのか、2019年の大統領選挙ではドネツク・ルガンスクとの内戦を終わらせると融和を説いたゼレンスキーが当選を果たしました。ただ、このゼレンスキーもまた当たり前のように「ナショナリズムに訴えることで内政の失敗から国民の目をそらす」路線へ突き進み、今に至ります。2014年も2019年も、いずれの大統領選挙でもウクライナ国民の支持を得たのは反ロシア派なりに穏健に見える方の候補でした。しかしポロシェンコもゼレンスキーも国民の期待を裏切り、ロシアへの憎しみを煽り立てることで支持を繋ぎ止めようとする結果に陥ったわけです。

 2014年のクーデターとドネツク・ルガンスクの独立宣言から8年間、ロシアは「NATO加盟せず中立でいること」「ドネツク・ルガンスクの自治を認めて、恩赦を出すこと」をウクライナに要求し続けてきました。しかるに停戦合意が結ばれてもキエフ政権の両地域への攻撃は止むことがなく、ロシア側の要求は一顧だにされないまま年月だけが過ぎていきます。そして2022年、ドネツク・ルガンスク地域に滞在していた欧米の監視団が退去するとキエフ政権からの攻勢が激化、ここに至ってようやくロシア軍は直接介入を開始、国境を渡ってキエフなど主要都市を包囲します。

 国内主要メディアでは一般に、このロシア軍が国境を越えたタイミングから全てが始まったかのように伝えられているのですが、それは実態としてどうなのでしょうか? 最低でも2014年のクーデターとそれに続く内戦は前史として考慮すべきですし、そもそもクーデターに至るまでのNATOとロシアの勢力争いもまた無視すべきものではないと言えます。また実のところ開戦当初のキエフ包囲の時点では侵攻ではなく「強訴」のごときもの、あくまで交渉に応じることを強要するためのものであったとも解釈できます。

 キエフ包囲の時点ではロシア軍による攻撃も、その後に起こったことから比べれば当初は威嚇レベルのものであり、ウクライナ軍もまた主要都市への接近を許すなど、本格的な戦闘にはまだ距離がありました。そしてトルコの仲介で和平合意案が話し合われると、停戦合意の一環としてロシア軍は包囲を解いてキエフから撤退します。ところがイギリスのジョンソン首相が急遽ウクライナに訪問すると事態は一転、ウクライナ側は和平交渉を拒絶し、西側諸国のメディアでは徹底抗戦論が説かれるようになりました。それを受けてロシア軍は東部地域の制圧を開始、本物の戦争が始まったわけです。

・・・・・

 これまで4章に分けて、ロシアとウクライナを中心に2022年までの史実を概観してきました。序章で述べたように何事にも現在に至るまでの経緯があるのですが、一方でその背景を意図的に「なかったこと」にしようとしている政府やメディア、大学教員も存在するのが実態と言えます。戦争は決して急に起こったりはしない、少なからぬ段階を追ってエスカレートするものであり、それを止める意思さえあれば必ず回避できるものです。しかし開戦に至るまでの経緯を黙殺することで、あたかも戦争は急に起こるものであり、どうしても逃れることは出来ない、だからアメリカとの関係を密にして軍備を拡張しなければならないと、そうした方向へ世論誘導が行われているのが日本の今ではないでしょうか。

 もし事実に基づいての意見であれば、相違があっても異論として尊重されるべきと言えます。しかし事実ではなく虚構に基づいた主張であったならば、それは異論でも何でもなくプロパガンダに過ぎません。ロシアとウクライナを巡る我が国の報道は事実に基づいているのか、それともアメリカ陣営に都合の良く修正されたものなのかは冷静に見極められる必要があります。ウクライナの全面勝利以外はありえない、停戦に応じることは降伏であり国が滅びると叫ぶ大学教員、平和な日本を謳歌するウクライナ避難民に「勝利!勝利!勝利!」と連呼させるマスメディア、ロシアに勝つまで戦争を続けなければならないのだと、それが我が国の官民双方のスタンスですが……

 前述の通りウクライナの制限された選挙の中でも、2回の大統領選で選ばれたのはいずれも相対的には穏健派と見なされる方でした。日本の主要メディア報道を見ると、あたかもウクライナ人が自ら戦争の継続を望んでいる、勝つまで戦うと決意しているかのように見えてしまいます。故に我々は軍事支援を続けなければならない、と。しかし戦場から遠く離れた日本でメディアの取材を受けるウクライナ人と、現地で自国の政府から自由を奪われているウクライナ人とでは考えていることも違うわけです。我々が尊重しようとしているのは本当にウクライナ人の意思なのか、あるいはゼレンスキーの背後にいる誰かの意思なのか、そこは問われるべきものがあります。

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