先日、9月2日の新聞報道に依り、一躍脚光を浴びる事になった一針薬師石仏。
その内に呼び名まで変わってしまうかも・・あの仏師快慶のデビュー作がこの石仏だったとは??
<僕が訪れた時はこの春日神社の裏手に有った>
以前、2006年10月にも、このページで紹介したことの有る一針薬師笠石仏、去年の6月に再訪、写真も再撮してそろそろUPしようかと思って居たところにあの新聞発表。
この笠裏の何処に銘文が刻まれて居たのだろうか??大凡の事は解っていたが、それが今回の銘文再調査により追認される形と成った。
境内脇から裏山への斜面を少し登った石垣の上、アルミの柵に囲まれて安置されて居た大きな笠石仏。
現在石仏は持聖院内に移設安置されて居るとか・・・。
大きい樫の木の根元に寄り掛かるように有った大きな笠石仏は、高さ、幅共に2m、厚さ30cmほどの不整形な自然花崗岩表面に刻まれ、大きい横幅を覆うに充分な笠石を載せて居る。
今回倒壊危険のため解体移設に伴う調査で、快慶が初期の時代に用いた「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」に極めて近似な「アン(梵字)大工匠人」の銘と共に、この地に総持寺を拓いた高僧「貞慶(解脱上人)」の発願で如月二十日に一周忌のため造立されたと解読される銘文も有り、快慶作の石仏とほぼ断定された様です。
貞慶と親しかった僧侶の伝記に、それを裏付ける様な「貞慶の発願に依り、快慶に薬師像を依頼して造った」と言う記述が有り、快慶のデビュー作がこの石仏だった可能性が高い。
しかし、あれだけの有名仏師が刻んだ石仏だとすると、その価値は一挙に跳ね上がってしまいそう・・・。
通常仏師と石工は別だと考えて居たのだが・・・・・、もしこの石仏を「快慶」自らの手で刻んだものだとすると、正しく彼は両刀使い天才彫り師??・・・
まあ、しかし線は細く繊細な彫りだけに、絵画的才にも長けた快慶ならと・・・・納得もする。
もう今じゃ自由にも会えない有名人??に成ってしまった一針薬師笠石仏、今度会うときはどんな処でどんな姿で逢えるのだろう??
<2013.9.2の読売新聞記事より複写>
多分文化庁が認めて重文などに指定されればバシャバシャと自由にシャッターも押せなく成ってしまうんでしょうね。
難しい学術的な事は「一針薬師笠石仏と貞慶」から・・・
撮影2012.6.10