愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

能勢町 宿野の阿弥陀石仏

2013年03月16日 | 石仏:大阪

なにゆえこんななんでも無い場所にぽつんとこれ程の阿弥陀石仏が祀られて居るのだろうか??ちょっと不思議な感じのする石仏です。

能勢町の役場前を横切り、京都亀岡市のるり渓へ通じる不道54号線、宿野一区、古民家の裏山斜面に簡素な覆い屋を設えられ、野の仏にしては立派すぎる程の定印阿弥陀石仏が祀られている。

しかも単尊一体のみで他にはそれらしきものは何もない。

花崗岩製、総高約1.2m、大きい舟形を負い、蓮華座に結跏趺坐、両手は膝上で弥陀定印を組む。

光背部は少し荒削りながら厚く半肉彫りで刻み出された体躯には力を感じる。

全体に黒い菌類が纏わり付くが、尊顔部は綺麗に取り除かれている。

尊顔は穏やかな笑みを湛え、衆生を静かに見守っている様子・・・・。

大きく張り出した膝や衲衣衣文は、近く月峰寺の六体阿弥陀石仏に酷似しており、それとの関連性を考えずには居られない程酷似して居ます。

月峰寺の六体阿弥陀石仏と同時期の室町中期の造立。

景観としては申し分ないのですが何故こんな場所で一人ぼちなんでしょうか??

撮影2011.11.3


能勢町 行者山の不動明王磨崖仏

2013年03月15日 | 石仏:大阪

正直なところ写真がまずいのか、どうも判り辛いと言うのが本音。

浅い線彫りの上、刻まれて居る岩がきめ荒く、あちこちでひび割れ、遠目には正直何が何やらでした。

細かく丁寧に彫っている分余計に見づらく成って居る様な??。

行者山への登山道へ入らず、そのまま道成に谷川沿いを奥へ詰めれば、河原に烏帽子岩と呼ばれる大岩が在り、不動明王磨崖仏が彫られています。

岩の正面には柴灯護摩(さいとうごま)の跡が有り、現在も行事は続けられ不動信仰の篤い事が窺われる。

高さ5~6mも有ろうかと言う赤っぽい大岩の中央・・・・・

火焔を背負う像高約2mの不動明王坐像が細い線彫りで刻まれている。

頭上には不動明王の種子カーンの文字。

こちら前の大日如来とは違ってかなり手馴れた像容ですが・・・、同じ江戸時代中期の造立。

この磨崖仏より渓流を渡った対岸には何故か弁財天磨崖仏。

ここまで辿り着くにはそれなりの根性が必要・・。

その分優しい笑顔で迎えてくれましたが・・・、享保八年(1723)の造立だとか。

撮影2011.11.3


能勢町 行者山役行者磨崖仏

2013年03月14日 | 石仏:大阪

前回の大日岩から更に暫く登ると弥勒岩と呼ばれる、斜面から落ないことが不思議な程オーバーハングした巨岩が有る。

オーバーハングの庇の下、岩屋には小さな石祠が有りやっぱり小さな弥勒菩薩が祀られて居るが問題外。

壁面を探してもこの岩には全く磨崖の類は見つかりません。

行者堂の脇をすり抜けテラス状に成った鐘掛け岩の壁面に覆屋が掛けられ、その奥の壁面に「役行者」像が刻まれている。

像高約1.2m、荒げた岩肌に浅いレリーフ、外光の届かない覆い屋の奥・・・・、顔の部分にスポットを当てて貰っての撮影。

看板には、奈良時代、役行者が爪で自らの像を彫り刻んだと書かれている磨崖仏??・・・・それは全く信じられませんが。

石仏としての価値は決して高く無い近世像・・、どう見てもアンバランス、多分これも素人彫りの様な・・・。

撮影2011.11.3


能勢町 行者山大日如来磨崖仏

2013年03月13日 | 石仏:大阪

能勢中央部?、栗巣辺りから丹波篠山(篠山市)に抜ける国道173号線、その右側に信仰の山「剣尾山」へと続く行者山が有り、山道には磨崖石仏が有る。

行者山へは栗巣の信号から車で5分、玉泉寺への看板の上がる辻を右折、道成にしばらく進めば行者山への登山口に着く。

行者山は麓の玉泉寺「宝雲上人」が江戸中期の正徳2年(1712)修験道の修行場として開いたと言われ、北摂の大峰山とも言われている。

そんな登山道には休みともなると、カラフルなヤマガールが押し寄せる人気のハイキング道

初老に辛い山歩き、喘ぎながら登ること20分ばかしか?、前方に見上げる程の巨岩が覆いかぶさる様に山道に突き出している。

大日岩と呼ばれる巨岩の脇を、ハイカーは事も無げにすり抜けて行く・・・・。

広い岩肌三分の一程に大きな磨崖石仏が刻まれている。

一目見た時、地蔵坐像かと???これが大日・・・・、どうも大日にしては物足りなさ過ぎる感じ。

江戸中期以降の造立か?、像高約2.5m・・・、蓮華座の上に座し胎蔵界定印を結ぶ大日如来坐像です。

体部は拙い線彫り、顔頭部は浅いレリーフ、顔容もぎこちなく素人彫りのような・・。

頭部宝冠、中央にはバン(金剛界大日)、向かって右にキリーク(阿弥陀)、左にはアーンク(胎蔵界大日)を刻み珍しい。

朱や墨の彩色痕も残るが、却ってそれが余計にこの磨崖を拙く見せているのかも知れない。

しかし大阪では数少ない大磨崖仏であることには違い無い。

撮影2011.11.3


能勢町野間大原 興徳寺の三尊石仏

2013年03月12日 | 石仏:大阪

大阪、北摂の山間部能勢町は兵庫県篠山市や京都府亀岡市と県府境を接する鄙びた田舎町。

西日本最大の巨木だと言われる「野間の大けやき」の近く、野間大原集落の高台に建つ興徳寺に珍しい三尊石仏が有る。

鄙びた能勢の山里らしく、茅葺き屋根に黒塗りトタンを懸けた風情ある本堂・・・

境内脇から左手、墓地入口に切石基壇を設けて古めかしい石造物がずらりと一列に並び立てられて居る。

ずんぐりむっくりの古びた宝篋印塔もさることながら、中央に有る背の高い自然石に刻まれた三尊石仏に目を奪われる。

高さ約2.3m、花崗岩自然石の丈夫に大きく舟形を彫り沈め、中に二重蓮座に立つ地蔵菩薩、下方には同じく舟形の中、半身程の不動明王(右)と毘沙門天(左)の三尊を刻んでいる。

地蔵の像高約50cm、舟形内に「天文廿四年乙卯本願宗燐」「十月吉日」銘文があり、室町後期 天文二十四年(1555)の造立。

左傍らにはこんな阿弥陀三尊石仏。

花崗岩舟形石の総高約1.2mに、中尊約70cmの阿弥陀如来立像。

室町後期の永禄十一年(1568)、逆修供養として造立された。

鄙びた山里には鄙びた石仏。

撮影2011.11.3


山口県周防大島町 浄西寺石塔婆

2013年03月11日 | 石塔:石造物

山陽、瀬戸内の旅の忘れ物、これだけの為に寄った周防大島、ほぼ最先端に在る浄西寺境内の板碑?を訪ねた。

岩国市と柳井市の間、瀬戸内に浮かぶ大きな周防大島はその島自体で周防大島町と言う自治体を造っているほど・・・・。

どこかの離れ小島とは様相を一変していて国道437号線の大島大橋で対岸の柳井市とは陸続き。

島の西端で橋を渡り海岸沿いに約1時間強、そこから先は国道がなく、県道60号線で山越え、15分ばかりで浄西寺に着く。

近くの林道にはそれと解る看板は有るものの、寺は無住で檀家の人が管理しているのかも??

境内への急な下りを降りると、左手に簡素な堂が有り、中に背の高い二石塔婆と、丸掘りの地蔵石仏が安置されている。

石塔婆は安山岩製の高さ約180にも及ぶ大きさで、鎌倉時代前期の 建仁二年(1202)の造立 。

山口県の文化財に指定され、瀬戸内地域最古の石塔だと言われて居ます。

当初石塔婆は阿弥陀を主尊に、観音、勢至の三体が在ったはずですが、勢至塔婆は失われてしまったようです。

主尊の上部・・・・。

その下部・・、脆い安山岩故、風化摩耗も激しい。

この島の出身、民俗学者の「宮本常一」に拠ると周防大島はその昔、棚田の島だったようだが、すっかり柑橘栽培がそれに取って変わったようで棚田はついぞ見なかった。 

撮影2012.11.30


山口県下関市豊浦町川棚中小野 岩谷十三仏

2013年03月10日 | 石仏:山陽

去年の暮れ、山口の旅でUPするのを忘れ果てていた石仏です。

僕の住む畿内、大和文化圏では十三仏と言えば板碑と思ってしまうほどですが、この山口では一体一石の丸掘り十三仏を見かける。

下関市の北部、川棚温泉から程近い山間の谷間、岩屋地区の奥、棚田中段の露出した岩場の上に、この丸彫りの十三石仏が安置されている。

岩谷十三仏はこの地を統治していた大内義隆の供養として八丈岩に十三体の石の仏像を造り奉納したとものと言われている。

現在、霊山「狗留孫山(くるそんざん)」への遍路路の入口に当たるこの地に安置、祀られている。

石仏は概ね70~80Cm、青っぽい石材に丸掘り、どことなくローカル色の強い石仏です。

中央には自然石を組み、石龕の中弘法大師だと思われる石仏、その蓋石の上には、見慣れない様相の・・・・・

多分不動明王だと思われる石仏。

それを取り囲む様に十三仏が配されているのですがイマイチどれが何様なのか良く判らない・・・、と言うのが本音

弘治元年(1555)頃の造立と言われ、室町末期の戦国時代、今から約450年前。

これが千手観音・・・・手が少なすぎるけど??

普賢菩薩、文殊菩薩だと言うのだが・・・・どうもさっぱり。

これはしっかり阿弥陀さん。

これも間違いなく大日如来・・・、しかしもっとキリッとして欲しいなあ。

まあ、僕の手には負えませぬ、取り敢えずはUPです。

撮影2012.11.28


滋賀県長浜市 北国街道木之本

2013年03月09日 | 街道街並集落 景観 

木之本地蔵」長祈山浄信寺の門前町として、また北国街道北国脇往還との分岐点、木之本宿場としても栄えた。

<桜の咲いてるところが木之本地蔵浄信寺>

長浜市街方面から北上してきた国道8号線が直角に進路を変える「JR北陸本線」木之本駅前、その信号を303号線方面に右折、どんと突き当たったところが言わずと知れた木之本地蔵の浄信寺。

境内には願掛けの「身代わり片目蛙」が一杯。

木之本地蔵の前を行く北国街道、町並みは鄙びた中に旧街道宿場町独特の風情を残す建物が並び建つ。

元禄11年(1698)には、高札場から南に約120軒、北に約75軒が建ち並び、家並みは街道の東西一筋の両側に並んでいた。

雪国、湖北らしく道路には道路には散水孔が設けられている。

木之本地蔵の直ぐに南、木之本宿の本陣跡で、日本第一号の薬剤師だったという、「本陣薬局」竹内家。

むっくり出しでは持って行かれそうな??年代物の木製看板・・・、この日は休業日だったのか扉はしっかり閉じられていた。

地酒清酒「七本槍」の造り酒屋「富田酒造」さん、木之本で酒造り450年余り、全国でも屈指の歴史ある酒蔵とされて居るようです。

店先には懐かしい格子障子、軒先には大きい杉玉、バッタリ縁代わりに「大八車の車輪」を利用したベンチが良い雰囲気を出している。

また木本宿は牛馬市でも知られ、山内一豊がこの市にて妻の備えていた金子で名馬を買い求めた話は有名・・・・。

土壁、棧瓦の庇には、さもありなんと言うふうに大黒天の縁起瓦が載っていた。

ここは鍾馗さんの出る場所では無かったようです。 

撮影2007.6.10/2010.4.10


滋賀県高島市マキノ町  海津の町並み

2013年03月08日 | 街道街並集落 景観 

滋賀県、旧マキノ町海津は今津、塩津とともに湖北三港として栄えた港宿場町、湖岸には波や風から町を守る石積みが延々と残されており、湖北独特の景観を醸し出しています。

また集落外れの大崎付近は湖岸の桜並木として名高く、湖上に影を落とす桜を見ようと、シーズンには人と車でごった返す。

少し湾になった波打ち際に、まるで城壁を思わせるほど立派な石塁が背の高さ以上に積まれ圧巻です。

江戸時代、代官「西与一左衛門」の尽力により、村を守ろうと築かれたもので施工は村人の手で行われたと言う。

海岸沿いの旧街道筋には、宿場町、港町として栄えた時代を偲ばせる古い建物が残り、鄙びた景観を形成しています。

古い町並みを真っ赤な郵便車が走り去る・・・・。

2005年、「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」は文化財保護法の重要文化的景観に指定されたそうです。

撮影2007.4.7/2011.2.20


滋賀県大津市 坂本の町並み

2013年03月07日 | 街道街並集落 景観 

<滋賀院門跡の石垣>

琵琶湖西岸、坂本はその背後に聳える比叡山延暦寺と日吉神社の門前町として栄えた由緒正しき歴史の町。

天台宗総本山比叡山延暦寺は往時6000坊を数える程に繁栄、寺の台所をあずかる坂本の町も室町時代には一万人以上が暮らす町となり活気に溢れていた。

しかし元亀二年(1571)織田信長の、あの比叡山焼き討ちで日吉神社共々町は灰燼と化し、江戸時代には米・魚・野菜などの荷揚地として、また活気を取り戻した延暦寺里坊の町として存在してきた。

日吉参道の両側には約50ヶ寺にも及ぶ里坊が有り、見事な「穴太積み」の石垣を構え、それが坂本の町並みの特徴ともなっている。

古い町並みを一番良く残している坂本四丁目辺り。

味噌醤油を扱っていた大文字屋さん、現在も塩商として健在、脇には「大文字屋地蔵堂」が建つ。 

明良馬場の辻から東方向を見る・・・・・、右手には福成神社、左手トタン掛けを残した懐かしい建物。

享保初年(1716)開業の鶴喜蕎麦本店、この建物は明治20年(1887)の建築。

入母屋造り総二階建ての建物は坂本の町並みを代表する建物となり、休日には店先に列も出来るほど・・・・。

坂本四丁目参道の角にはこれも風情のある日吉そばさんの建物・・・鶴喜蕎麦さんとは一軒置いて隣同士です。

断食僧の弱った胃を慣らす為に、蕎麦は欠かせなかったらしい。

参道より東側の町並みも懐かしい味のする建物・・・。

滋賀には多いベンガラ出格子、虫籠窓、バッタリ床几、犬矢来と勢ぞろい・・・・。

然し余りにも整然としすぎて居る様な。

撮影2010.11.13


滋賀県栗東市 旧和中散本舗(大角家住宅)

2013年03月06日 | 街道街並集落 景観 

滋賀県、湖南のの交通の要所、栗東市街の東外れ、旧東海道の一角に豪壮な構えを持つ屋敷が有る。

栗東市役所付近より東に約2km、県道と在所道がちょうど岐れる六地蔵の地に、「旧和中散本舗」と刻まれた大きな石柱の建つ「大角家住宅」。

屋根の造りが独特で、上部本瓦、下部は棧瓦葺きの二段構え、両端に防火用の卯建壁(うだつかべ)を建てた高塀造りと言う重厚さ。

建物は、間口67尺(約20m)、奥行62尺(約16m)と大規模なもので 内部は店舗、製薬場、住居部に分かれている。

慶長16年(1611)近江永原の陣屋(現 野洲市)に滞在中であった徳川家康の腹痛を治したことで、一躍名を馳せ「和中散」の名は家康が報奨として自ら名付けたと言う。

街道に面した正面は商いをしていた頃の面影を残しているが、戸板は固く閉じられ中を窺う事は出来ない。

この建物は寛永年間(1624~1640)に建てられたもので、国の重要文化財に指定され、内部の庭や屋敷全体は国の史跡に指定されていると言う。

撮影2010.2.20


京都府旧木津町 本町通りの町並み

2013年03月05日 | 街道街並集落 景観 

<木津川提近くには米穀商の米蔵が並び建つ>

旧木津町(現木津川市木津町)は山城の最南端、奈良市と境を接する木津川左岸に在り、往時は奈良の都への木材の集積所、木津として、又その後木津川船運の拠点として、京都奈良を結ぶ奈良街道の要所として大いに栄えた。

木津川が東西から南北に流れを変える少し手前、現在の国道24号線「泉大橋」のずっと下流に「木津の渡し」が在り、奈良街道は渡しで結ばれていた。

そんな奈良街道本町筋には商家を中心に古い町並みが残っている。

本町筋と旧国道163号線出会い辺りの町並み。

本町二丁目辺りの民家・・・・白壁虫籠窓、格子窓に雨縁を持ち卯建を付けたどっしり落ち着いた中二楷屋。

主屋脇に白壁土蔵をもつ家も多い。

黒塗り壁に白い棧格子の虫籠窓・・・・ちょっと疲れた筒竹の張り出し柵??

小さいけど重厚な感じの民家、門口の両側に出格子を備え、「駒寄せ」を設けている。

木津川から水路を引き米穀商を営んでいた八木家の土蔵です。

屋敷を囲むかの様に多くの蔵が建ち並んでいて往時の繁栄ぶりが偲ばれる佇まいです。

いま、町は又新興住宅地として脚光を浴びているが、山を潰して団地を造ってもなあ・・・・・。

撮影2013.2.3


京都府京田辺市 東(ひがし)の「大徳寺茅葺き屋根」

2013年03月04日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

昨日紹介した京田辺市東、同集落内にある真言宗大徳寺の茅葺き屋根本堂。

列島改造以後急速に都市化が進み、僕の子供の頃には集落内横断する幹線道路が一本有るだけの小さな集落、都市化が進んでやがてバイパスが集落の西端を横切るように新設され、それでも交通量の増大のため、更に集落の東端をかすめる様に新しい国道が増設された。

現在旧集落は新興住宅や都市化した建物に飲み込まれてしまったように息を潜めている。

集落の西端バイパス沿いに、唯一、竹藪雑木林に囲まれた「真言宗智山派」東福山大徳寺の風情豊かな茅葺き屋根の本堂が建っている。

大徳寺は元、此処よりもっと木津川に近い地に村の大日堂として存在してたようですが・・・・木津川の氾濫により流失、その後時を置き、安政三年(1856)現在の本堂に再建された。

寺の本堂としては珍しい民家風大和棟茅葺き屋根を持ち、間口正面庇を「廻り庇」より一段高く上げ、それらしく突き出し幅も多くしていて、その分、茅屋根母屋部に独特な切り込み部を見せている。

この建物は再築の折り新築されたものではなく、そう遠くない現在の八幡市辺りに在った建物を移築したものだそうです。

落ち棟袖部はかなり大きく突き出し庫裡として利用されて居たのだろう。

南面して建つ本堂を東側より見る。

破風板には切り抜きの「丸に橘」紋・・・・、この寺は橘氏とゆかりの有る寺なのだろうか??

こちら側妻部は入母屋造りになっている。

西側から見ると間違いなしの大和棟、下り瓦棟には鳩瓦が載せられていた。

こうして見ると・・・・、寺院というよりは民家そのもの様です。

撮影2013.2.16


京都府京田辺市 東(ひがし)の茅葺き屋根民家

2013年03月03日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

この家はお袋の実家の近くの名家、子供の頃から良く知っていたが、昭和の後期、これと良く似た以前からの大和棟を取り壊し、以前と同じような大和棟茅葺き屋根を新築した。

まだ若かった僕には驚きだったが、今は亡きこの家の当主が大和棟茅葺き屋根の良さを誰以上に良く知って居たのかも??

山城盆地を東西に切り裂く様に流れる木津川西岸域、木津川に架かる山城大橋を国道307号線で西側に渡り切り、道成に進めば真正面のこんな景色にぶち当たる。

車窓から右手を見れば鋭角を成す妻部、棧瓦葺きの落ち棟には煙り出し舘。

裕福な経済力の証か、長屋門の奥に切り立つ茅葺き大和棟。

現代建築とは思わせない程の景観を醸し出してる。

もう築後30年以上、屋根の傷みも目立ち、そろそろ葺替え時・・・

まさかカラートタンで覆ってしまうことは有るまいが・・・。

下り瓦の棟に付けた鳩の縁起瓦は子孫繁栄の呪物だとか・・・。

山城の大和棟民家には其れ程の高塀は見られない。

撮影2013.2.16


奈良県吉野町山 金峯山寺参道町並み

2013年03月02日 | 街道街並集落 景観 

<桜のない吉野山金峯山寺>

一目千本、桜の花で名の知れた吉野山はシーズンには押すな押すなの大賑わい、その季節が良いのだろうがとてもその人混みに入る事は出来なくて季節外れの九月中旬、金峯山寺を訪れた。

吉野町役場前から吉野川を越え、一気に対岸の吉野山に登る。

金峯山寺の参道には懐かしい風情の土産物屋・・・・

くいもの屋などがズラッと軒を連ねている。

参道は細いながら車も人も参道以外の道は無い。

明治以前は大名といえども、馬を下りなければならなかったと伝えられる金峯山寺の総門「黒門」。

金峯山寺銅鳥居は、東大寺の大仏を鋳られた銅の残りで建立されたと伝えられているもので日本三鳥居の一つとされているようです。

銅鳥居を潜れば正面頭上には蔵王堂の屋根が聳え立つ。

豪快な仁王門。

国宝の蔵王堂・・・シーズンオフならこんなもん。

本尊、蔵王権現(ざおうごんげん)は役小角(えんのおづぬ)が桜の木で彫ったとされ、これより桜は吉野の神木となり、こぞって苗木が寄進された。

境内少し下方にある妙法殿、吉野朝宮跡。

吉野土産で有名な「陀羅尼助丸」を扱う藤井利三郎薬房。

古めかしい店舗に商標マスコットの三本足蛙

ちょっと懐かしい匂いの民家・・・、横で茶店風に商いをしている。

春は桜のビューポイント近くにある「吉野水分(みくまり)神社」、「みくまり」が「みこもり」と訛り、子育ての神として信仰されてきた。

下千本駐車場からここまで約4km、足らず、あちこち寄り道してたら2時間近くも掛かてしまう・・・・。

この奥に、「奥の千本」が在ると言う・・・。

吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・「大峯奥駈道」の北端にあたり、「紀伊山地霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。

撮影2009.9.14