愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

柳生町 ほうそう(疱瘡)地蔵

2013年03月26日 | 石仏:奈良

もう、とっくの昔にUPしたと思い切ってた柳生のほうそう(疱瘡)地蔵と呼ばれる磨崖仏。

奈良市街からの旧柳生街道終着点近く、柳生陣屋跡より南へ1kmばかりの山裾に突き出した大岩に都合5~6体の石仏と室町初期の徳政令(借金棒引き)の銘文が刻まれている。

現在磨崖には簡素な覆い屋が掛けられ、保護のため?の柵も設けられ、野趣が消えさってしまったのは否めない。

大岩は幅約3.3m、高さ3m、奥行き約4mのボール型。

覆い屋の正面に高さ約1.5m幅80cmばかし長方形を彫り沈め、蓮台に立つ像高110cmの地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻み出す。

地蔵立像はスラッとした定形の長等身、光背壁の両側には薄肉彫りの蓮華花瓶が配され、珍しい。

頭部には円頭光が見えるが風化摩耗が激しく像容は覚束無い。

昔、顔の部分が剥がれ欠損して居たが昭和44年、土中から発見、接合され元通りに成ったようです。

顔の無い時代、まるで疱瘡を患ったように見えた事からこの名で呼ばれているとか??

地蔵の左脇には角枠の中に双体仏・・・、一体は剥落してしまったのか確認もままならず。

ほうそう地蔵は鎌倉後期、 元応元年(1319)の銘が確認されて居ます。

向かって地蔵右下方にある刻文・・・・これが国の史跡指定としてこの磨崖を広く知らしめている。

肉眼では何が何やらさっぱりですが・・・

上記の通りです。

一方地蔵の右側、街道沿い面には・・・・・、

二体の阿弥陀仏と五輪塔を刻み出す。

中央大きい方の阿弥陀如来立像。

こちら小阿弥陀如来・・・・。

この石は地域にとって特別な石だったのでしょうか・・・・・、地蔵は鎌倉後期の元応元年(1319)、徳政令文(史跡)は室町前期の正長元年(1428)、この阿弥陀は戦国時代の天正三年(1575)の銘が有るそうです。

凡そ350年間に三回も同じ石に刻み込んでいる。

撮影2011.11.24