大阪市内や河内では石仏は悉く祠や地蔵堂に祀られ、殆ど厳重な鍵を降ろされ手出し無用といった按配、どうにも成らないので殆ど訪ねないことにしている。
古代王陵墓の集中する大和川流域、南河内方面から流れる石川が合流する南西岸に 一筋ふるい軒並みを残す船橋町が在る。
そんな町並みの中程、大山咋神社と養源寺の並ぶ表に地蔵堂があり、舟橋地蔵が丁寧に祀られている。
金襴の御簾だけは何とか跳ね上げましたが、この可愛い涎掛けは後のことを考えると外せなくこんな姿です。
火災にでも遭ったのかと思うほど風化剥離が進み、目鼻立ちも覚束無い状態です・・・・
舟形光背を背負う像高110cmの厚肉彫り、当時この地が南朝支配の土地だったことが窺われる、興国五年(1344)と言う珍しい年号を刻む通常型の地蔵石仏です。
この地も南北朝争いの戦場となったようです・・・・・。
そんな斜め向かいにはこの地の旧家で生まれ育ち、書道で名を残した松永白洲記念館が有って数々の作品を見せて頂いた。
撮影2010.1.10