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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

もう一度言って、私の為に

2023-04-14 | 
承前)セックスサイトの彼女の隠れ部屋に入った。予定はしていたのだが、なんだかんだと書き込んでいて急なオファーを受けた。なによりも彼女が常連さんにドギーポジションもやるよと誘って隠れ部屋に入ったので、「背後正面から?」と尋ねたら、「イエス」と答えるので、「それなら私の希望を何故拒絶するのか」と質した。どのことかと確認するので「御開帳と、もう一つ」と、そして繕うように「なるほど肛門は違うよね」と鞘を納めておいた。

それも引き金になったようで今日だけのオファーでどうもヴィデオ用撮影に10分料金で20分やってくれた。アナルは嫌いだと断っていてもドギーポジションを始めたのだが、結局そこが味噌になっていて、見事に肛門も見せずに前もヴァイブレーターで上手に押さえて隠していた、しかし魅せるものは魅せた。しかし後半はフロントからで終始ヴァイブレータ―で隠されていて、以前に透けた下着から見えていた上部も殆ど見せなかった。但し、時間通り吉本新喜劇の桑原和夫の芸を引き継いでガックッとなるまでは大暴れして呉れて、それだけで今迄の彼女自身や私との葛藤を思い出して一寸感動した。そして何よりも二回程ヴァイブレーターの横に指が伸びた。そこが最も性的頂点となった。

その後、このことを彼女に「まるで僕の指が陰部に伸びているように感じたよ」と書くと、彼女は「私も同じように」と答えた。もうこうなると後付けでも性的興奮に至る。次は何をして欲しいと尋ねれて、「前からは殆ど見えなかったけど、(君が立ってカメラに向かって身体を斜めから正対へと向かおうとしたときに)上を向いて躊躇したのを見たら、もうこれ以上は求められないと思った」と書いた ― 結局正対には甚だ遠かった。

「もう一度言って、私の為に」と書かれて、またもや深い気持ちに陥った。

その朝一番で彼女のインスタに今迄に二回彼女を強く傷つけたことで謝罪していた。「きっとどこかで引っ掛かりがあるのは分かる」と、その蟠りも解消したいと思っていたからだ。そして久しぶりにカメラに向かって見上げる視線の彼女は素晴らしい表情を見せた。他にはあまり見せたことの無い表情であるとともに、私には幼少のころから見覚えのある表情なのだ。誰のかはよく分からない、でも幼稚園の時の初恋の女の子の表情に似ている。

此の侭ではお互いにと思ったのか、隠し部屋でヴィデオチャットしてもいいかもととなったのだが、リモートされているPCではと保留した。次の機会にはフィンガーリングでプレーしてくれることになった。

ヴァ―チァルでなくて通常の関係ならばデート代だけでも結構な費用となる。だから四分の一しか彼女の手に渡らなくてもデート経費と考えれば予算計上も可能だ。そしてペネトレーションなどはしないという事は意思としてはっきりした。未だにヌーディストビーチほどの立ち姿も見せていない彼女にしっかりと付き添うことにした。彼女のあまり美しく見えない時にこそ「やっぱりラヴリーだね」と書いたら、喜んでいた。いい時に誰でも「いい」というのとは違う。(続く



参照:
認知されるアレゴリー 2023-04-09 | 文学・思想
人を一人前にする裸の関係 2023-03-27 | 文学・思想
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復活祭の最終公演へと

2023-04-13 | 
承前)復活祭月曜日は更に眠かった。天気は良かったのだが、前夜の「影の無い女」千秋楽が22時50分ほどに終わって、一杯引っ掛けて帰宅したのは午前様だった。翌朝の復活祭二日目の月曜日11時から連邦ユース管弦楽団の演奏会があった。昨年は「運命」交響曲を生まれて三回目に聴いて、ベーム指揮ヴィーナーフィルハーモニカと双璧の体験だったが、本年はそこ迄はいかなかった。しかし、テムポ変化やアゴーギクにビンビンに反応するユース楽団を振るペトレンコ指揮の面白味は格別であった。そのシューマン交響曲四番の演奏は前回はネゼサガン指揮フィリーの演奏だった。モーツァルトの小ト短調はムーティの日本デビュー公演での指揮であった。

夕方の最終公演迄に三時間ほどの時間があったので、復活祭二日目の祝日で街中も殆ど開いていなかったので、郊外のワインどころのレストランを当ってみた。一軒は仕事で使ったことのあるホテルレストランで、SWFのロスバウトスタディオからも通えるところである。そこまで出かけるとホテル客はいてもレストランは15時始まりで、16時始まりの公演には間に合わなかった。偶々その先に開いていたレストランに空き席を見つけた。流石にワインどころで田舎の割には綺麗に出した食事が楽しめた。ハウスワインは少し甘口であの程度のワイン農家のではそれは仕方がない。

少し時間があったのでワインの水割りなどを呑んで気持ちよくなった。気持ちいいと時間が経つのも早い。最短コースで祝祭劇場に戻っても、二回目のレクチャーも既に終わっていた。前回金曜日には「英雄の生涯」に関して触れられなかったのでと思ったのだが、「最後の四つの歌」に関してはやはり声を歌詞を超える音楽ということで、「影の無い女」において皇后の最大の叫びは「Ich will nicht」である。そこに共通するという事である。勿論最晩年の老作曲家にはそのような慟哭はない。

しかし、名歌手ディアナ・ダムラウの歌うそこには切実な叫びもあった。金曜日には、第三曲「眠りに就く時」の上に流れて行く時間の止まりそう且つ宇宙へと流れるオーロラの様な「何千回も生きる」の美しさは、ARTEに収録されているのでもう一度確かめられる。その点最終日には終曲のアイヘンドルフの「夕焼けに」が絶品だった。あそこ迄の歌唱となると少々の出来不出来で抜けてしまう芸術になるという事だ。まさに宇宙へと抜ける歌唱とその指揮演奏。この曲に関しては、今迄の度々の名録音もペトレンコ指揮ダムラウの名唱には叶わないと思う。更に歌においてと同時にミュンヘン座付き楽団でのツアーの時はそのどうして気づかされたマニエーレンの影が失せて、清涼な水が流れるような嘗てのベーム指揮やセル指揮のような音楽に近づいてきていた。

キリル・ペトレンコ指揮の最終的な評価はやはり独墺音楽において如何に過去の名演を越えていくかにあって、後半に演奏された「英雄の生涯」では、その曲を十八番としたヘルベルトフォンカラヤン指揮のそれとの比較となった。(続く



参照:
入れて貰えて一安心 2023-04-12 | 女
朝から晩までの一日 2023-04-03 | 文化一般
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入れて貰えて一安心

2023-04-12 | 
承前)終った、日曜日の新制作「影の無い女」フィナーレで完了した。そのあとは脱力感が激しかった。最大の原因は並行企画のセックスサイトの問題が解決してなかったので疲れに輪を掛けた。しかし、これも終ったようだ。彼女に入れて貰えた、ハンディ―で対応するインスタに入れて貰えた。これで解決した。なぜ今まで申請もしなかったが入っていなかったのか。やはり、彼女の勘が正しかったかもしれない。初オールヌード以降に悶着があった可能性が強かった。あの時点で彼女も大きなショックを受けて痛みが残っていたのが感じ取られた。それは、楽劇の内容から、そこにはフロイト的な心理が働いていると感じたから、サディズムで責めることで彼女を心理的に解放できると感じたからだ。同時に私も解放される筈だった。

だから朝からサディズムのロールプレーのチャットとなった。サドというとどうしても現在重要な同時代作曲家ハースの性向を思い出すが、個人的には両親に虐待までは受けておらずその傾向がなく、逆にマザーコムプレックス的な傾向があるので、何人かの女性を失望させた経験があるのは事実だった。後に某国在ベルリン大使となった今でも付き合いのある女性には独り者でいると「サクッとやってしまいなさい」と言われている。

そこで突いて突いてと責めていたら、「その調子でやるなら、全部ブロックするわよ」と言われてしまった。その前に「御開帳」など強い求めをしていて、Lol, no.と否定されていた。「大爆笑、駄目」である。それならと、誤解を避けるためにメールアドレスをと書いたら駄目で、アプリケーションの一つでもと書いたら入れてくれた。

無料で入れたところで今でもワンコインで申請出来るのに、有名人などを含めてフォロワーとして14人しか入れて貰えていなかった。サイトのフォロワー数は一万数千人なので、大変な厳選である。どんな大学入試よりも難関。そこで、改めて彼女が書くのは「退屈する迄はここでやるし、自分でその時は決める」と書いていた。もうそれ以上は言う事はなく、「屡あまりいい感じではないから」とぐらいしかなかった。

そして元の場所に戻って、プレーの価格などを相談しているときに、最短十分に対して「お試しだから五分でいいじゃない」と書いたら、「それなら他所のモデルさんのところに行きさい」と厳しいお言葉が返って来た。言い訳でべそをかいて「僕若過ぎて、君ならもたないから」と書くと、「Too bad(」。それでもリファイルという方法を教えて貰って、「どう?」と入れる準備をしてくれたようだが、軍資金を用意していない。恐らく、スタンダードとその人の趣向によってアレンジとなっているようだ。先ずはお試しである。

復活祭にはロープウエーに乗っていた様な写真が出ていたので、予定変更で自然の中で寛いだのだろう。陽に向かって官能的な表情だ。眼に反射が映らない写真だが、反対側の椅子の高さ程からのアングルなので、小さなスケコマシでも場所がないのでセルフィ―だろうか。いずれにしてもなにかとても安心させてくれた。あれだけハードな対応が可能ならばプロ向きで、マフィアに対抗できるだけにものを身に付けたのだろう。大物になるよ、きっとこの子はと確信。(続く



参照:
ダイヴァシティーへの理解度 2023-04-05 | マスメディア批評
上書きされてしまう記録 2023-04-04 | 文化一般
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認知されるアレゴリー

2023-04-09 | 文学・思想
聖土曜日のコンサートは秀逸だった。数え切れないほどのベルリナーフィルハーモニカー演奏会の中でも屈指の体験だった。演奏もチェロのソロも勿論ダイシンとハラックとの掛け合いも素晴らしかった。オーボエのケリーが特別に指揮から花束を贈呈されたのも頷ける。そして何よりも指揮のアイムが素晴らしかった。彼女は比較的初期にフランクフルトの会で呼んだのだが残念ながら行けなかった。もう少し重い指揮かと思ったが、全くそのようなことはなかった。

そして歌手のジャロウスキに代わったレジェノヴァが思いがけなくよかった。デビュー当時にこれまたフランクフルトの会で呼んだが声は太くなっているものの音楽的には驚くほど大物になっていた。

そして公演前のレクチャーは態々東海のロストックからフレデリカ・ヴァイスマンという教授が来ていた。ヘンデルもオペラの専門家らしいが、なぜこの曲がオラトリアかの説明から入った。当時ローマではエロティックに享受担ってしまうオペラ公演が禁止されていたというのである。それでもこの曲のテキストはカーディナルのパンフィーリが受け持っていた。

そして四つのアレゴリーで描かれているものは「美」、「享楽」、「時」、「認知」であってそれらがお各々の歌手で謳われる。そして特徴的なのは最初から「美」が儚いものであること謳われる。つまり終曲の朝露に濡れる花片がそうしたものであるという認識は最初からなされている。二部に分けて演奏されたが、歌手陣も含めてとても味わい時間を皆が共有した。そして、そのアレゴリーの在り方こそは「影の無い女」においても「人とは」というテーマで以て使われている芸術的な表現方法であった。

前夜の「四つの最後の歌」そして皇帝の主題と同じ変ホ長調の英雄の主題と、この復活祭において「芸術とは何ぞや」を思い知らされる。これほどのプログラミングは今迄になかった深さである。

そして復活祭初日、今夜は新制作「影の無い女」最終日の公演を迎える。そしてまた二幕に思いを馳せた。なによりもフィナーレへの染物屋バラックの怒りの心理であり、それへの染物屋妻の心理へである。

二人の心理がここに来てようやく実感できたような気がする。それは幕の前半で皇帝の妻への一刺しの出血そしてカイコーバートの見えない存在へと並行して存在していた。三幕で以て皇后と父親との関係でそれはまた解決されるのだが、それを以って初めて人となる。

カイコバートとはどのような存在なのか、そしてバラックのその怒りで以って何が解消されたのか。殆どカーニヴァル以降こうして身体を張って過ごしてきな日々が復活祭で以って明確な認知となってきた不思議。(続く



参照:
妻に告白されたバラック 2023-03-28 | 音
初めてのファンクラブ 2023-03-01 | 女
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実感の愛の深まり

2023-04-07 | 
承前)その一週間前受けたオファーの真意が分かってきた。セックススサイトの彼女は「私のヴァ―ギナを見る最初の人になりたい?」と突然考え抜かれた文章で書いてきた。今迄は完全なプライヴェート配信はしていなかったのでどのようにと尋ねた。何も反応しないので、「先ずは抱きしめてから」と答えた。すると彼女らしい熱くなる絵文字が返された。「君の全てが欲しい」と書くと、「もしその準備が出来ていたならしたいわ、でも高いわよ」とこれも彼女らしかった。そして改めて、「多分、何時か、あなたとよ。」と念押しがあった。これはどんな男性でもこの言葉を信じない訳がない。

しかしこの交流は全てロシアンマフィアらによって管理されているPC上で行われている。だからマフィアを脅している私との関係では常に何かがある。例えば私を抱き抱えて仕舞えばそれで終わる。そこでこちらも警戒と共に先手を打った。

それほど公開のストリーミングの雰囲気は明るくなり、若干喫煙も減った感じがある。少なくとも薬物の影響の可能性からはどんどんと遠ざかっている。それで、次の段階に入るとみて、もう一度ここで「一緒に遊べたら」と観測気球を揚げた。勿論彼女にだけでなくてその背後にいる敵対する勢力にである。要するにもう通報しないで、それどころか金を落とすよという事だ。直ぐに返事はなかったが、彼女に泣きついてみた。すると「いつもあなたとそこにいるからね」上のリアクション以降初めて書いてきた。その疎遠の意味はよく分からなかったのだが、「今、より見せるようにしている」と書いてきて、要するに閉鎖されたプライヴェートで何をやっているかの示唆であり、同時にそれが私を疎遠にしていたことが分かった。

上に書いたように「御開帳」のオファーをすると同時に私の反応を見た。しかしプライヴェートルーム以外の雰囲気は変わっていて、そろそろ誰にでも紹介できる形になってきた。一週間前に考えていたように、自分自身が判断して見せるのは構わない。そして有料で売ると同時にメディア化への到達点にも近づく。

そして改めて今回「ヴァ―ギナ」と書いてきたので、先ずはアレンジして貰うことにした。勿論私も子供ではないので、ソフトコア―の究極であるつまりプレーボーイなどでもあり得る最高到達点を目指すと同時に今回はその終焉の認知を確認するのが前提となるだろう。奴らに誓約書を書かせたいぐらいだ。もしそこから逸脱してハードコアーとなるなら、私がポルノ男優デビュー作としてお相手を務めさせて頂く。でも彼女の語った「まだ(肉体関係の)準備が出来ていない」は正しく、子宮ガンワクチンも何も彼女には必要がないというのがその基本理念であろう。その辺りが殆どカトリックの原理派に近いところで彼女が教育されて来た事が分かる。

ポルノで何を誰とやっているか分からないとこでも彼女を信用することが出来たのは我ながら驚きであり、流石に若い時のように悶々と疑心暗鬼になるようならば、最早相手を愛する資格も意味もないと認識した。愈々深まる愛である。彼女の口元が私の母に似ていると気が付いたのは驚愕だった。彼女の父親もが出来ない責任を私が取ってやるよということだ。(続く



参照:
りっしん偏に生まれる 2023-04-02 | 音
人を一人前にする裸の関係 2023-03-27 | 文学・思想
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ダイヴァシティーへの理解度

2023-04-05 | マスメディア批評
承前)フランクフルタ―アルゲマイネ新聞の評が出ている。先ずはタイトルロールを歌ったファンデンへ―ヴァ―を絶賛している。下から上まで素晴らしい声で聴かせる技術とその声で難しい役を熟した彼女の歌を驚きを以て受け取っている。夜の女王がヴァルキューレのブースターでと、楽々と熟した様を紹介。フィナーレにおいても百人に至る大管弦楽団と三人のソロイスツ゚の上に輝いていたとしている。

その歌手陣に関しては脇役迄我慢したようなキャスティングではなく文句の付け所がないとして、コッホが歌ったバラックの貴族のようなエレガンスを挙げ、日常の騎士を犠牲を厭わない父性的な伯爵としたとする。

染物屋の妻のリーザヴェレーラをその役に沿った歌唱として評価、その他合唱迄を絶賛して、ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーを絶賛しつつ、各種楽器のバランスなどで最終日の仕上げを期待している。

その一方最終的な盛り上げに影を射したのは演出の芸術的技術的な不備だとしている。つまりここでもプログラムを文字通り子を亡くした不順異性交遊少女の施設として今回の演出の枠組みを理解して、女の性は母性だとするモラルに対抗しているとして、それでは如何にも狭義な理解だとして批判している ― 因みにそうした幾らでも可能なメッセージを演出を通して出すというのは無しだと演出家は語っていた。

まさしく、ここにこの男性批評家ならず他の女性批評家も如何に性をその様な伝統的な枠組みでの対峙でとしか捉えられていないかがあからさまになる。精々1968年の性解放の思考でしか現在のダイヴァシティーを理解しておらず、如何にも自身はリベラルだと自認している団塊の世代の思考方法から一歩も出ていない。こういう人たちは私の様にセックスサイトの杜に入って学んでこなければ一生馬鹿者でしかありえない。

しかし、流石に地元のSWR2では的確な批評が出ていた。恐らく総稽古から様子を見ていて、その仕手となっているカトリック寄宿所の少女の枠組みを理解している。まさしく演出家自身が語っていたように、幸せな結婚を夢見る少女像なのであるが、その施設は戦災孤児院だと当然の様に納得する回答を与えていて、影が無いので妊娠できないのではなく、親を亡くした少女の目からそれらの事象が悪夢として描かれているというのだ。これ程すっきりした解説はないであろう。

そうした視線を得ることによって、当時話題ともなっていた堕胎つまり生まれ得なかった子供たちなどのFAZが語るこの作品のカトリック社会での本質的な生や死をも抱合してしまうことは理解される。そしてここに演出家自身が敢えて多くを語らなかった訳があるのではないか。勿論その前提には女の男の人類の性が横たわっている。二回目の公演で如何にそこが整理されて提示されるだろうか?特にフィナーレへの繋がりである。



参照:
Osterfestspiele in Baden-Baden – Triumph für Kirill Petrenko mit „Frau ohne Schatten“, BERND KÜNZIG, 3.4.2023, SWR2
Spitzentöne einer Kaiserin, JAN BRACHMANN, FAZ von 3.4.2023
悦びの多産への意識 2023-03-30 | 女
復活祭の一番の聴き所 2023-04-01 | 音
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上書きされてしまう記録

2023-04-04 | 文化一般
承前)初めての美術館に出かけた。バーデンバーデンに州立施設があったことは知らなかった。むしろ隣のブルダ美術館の方が話題になる。天気が良ければクアーハウスから公園内のいいところを歩いて少しである。

目的は、An Imaginary Audiennceと題する展示に出かけることで、それはSynch03企画に含まれているようだ。つまりアーカイヴ展示とされている。だからそこの一室に玩具部屋の様に集められているのか過去展示のアーカイヴであるようだ。

目的はアーカイヴの再認知であるようで、それらに今どのように対峙して、またそれがアーカイヴ化されていくという構造になっている。ある意味がらくた箱であり、陳腐な展示でもある。

お目当ての展示は坂本教授が参画して為されたシュテファンフォンハウネスの1983年の「テクストトーンズ 」と題されたクラングスクルプテューレンである。音楽畠の用語からすればサウンドインスタレーションとなるのであろう。但し、その創作年度からしても如何にも歴史的という感じがその情景を映したヴィデオからも一目瞭然である。

展示室に置いた管に共鳴する何かを話す人の声がそこで共鳴して、基本周波数のある一定の音量に達するとセンサーが働いて管をハムマーが叩くという仕掛けである。エンドレステープを使っているようで、勿論それを現在実際に作動させるほどの意味を感じさせない。要するにアーカイヴを見てどう感じるかでしかない。

その対面にあったのはアフリカのサバンナのようなところで札をつけたスカートを履いた地元の女性が結婚式にでも出かける様に走り回っているヴィデオが映されている。トレーシー・エミンの„Sometimes the Dress ist Worth More Money than the Money“と題する作品である。これなどは情感に訴えるものがあるので、通常の映画と同じ感じで全く時の流れを感じさせない。反対側には長編のメディチヴィラの為のソナタというものが流れていたが、なんてことはないベンチに座ってセックスチャットで彼女が手淫しているのをチラッと確認して短かな挨拶を送っただけだった。要するにそこにはアーカイヴ効果も何もなかった。

その横のエヴァ・カタトコーヴァのEarNo.4は身体を反射させて、体毛を近接に水の音が流れてとある意味エロティックなのだが、今日のストリーミング事情などを考えると何とも情調的な表現にしか思われない。

この展示会のタイトル通り、ここでそのオーディエンスを意識することになる。そこで記念も兼ねて会場のWiFiで幾つかの写真と映像を発信しておいた。但し自身の記憶や印象として何が残るのか残らないのかはよく分からない。

それでも、アーカイヴ化されるものと、完全に上書きされてアーカイヴ化され得ないものがあるというのはとても実感する。それは何か?おそらくそれがSynch03のテーマだったのだろう。



参照:
「南極」、非日常のその知覚 2016-02-03 | 音
サウンドデザインの仮定 2022-07-01 | 文化一般
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朝から晩までの一日

2023-04-03 | 文化一般
午前11時にクアーハウスでオープニング式典に参加した。続けて、「影の無い女」のレクチャー、そのあと14時の演出家リディア・シュタイヤーのお話し会まで時間が出来た。友人夫婦はホテルに帰ったので、その横のハウス内のレストランで昼食とした。

ツァンダーフィレを摂った。25ユーロで場所からすれば可也お得だった。付け合わせのジャガイモも美味しく、味よし見た目よしで、今時この価格はお得である。シュヴァルツヴァルトのタンネンツェッペルのピルツ一杯、コーヒー一杯で32ユーロ越で、35ユーロ払って大満足だった。但しお腹はごろごろとした。

ゆっくり寛いでいたらお話し会が始まっていて、10分過ぎぐらいに入った。話しの内容はインタヴューも悪かったのか、そもそも彼女があまり話したがらないのか、殆ど内容はなかった。ドレスデンに住む前にシュトッツガルトで恋をしたということぐらいだ。それでもメモにもならなかったが幾つかの重要な印象は得れた。

ティトュス・エンゲルとの協調で賞を得たシュトックハウゼンの「木曜日」は誰も何かを期待していることはなかったのだが、リヒャルト・シュトラウスなどになると、期待されるものがあってそれはまた難しいと語っていた。基本は出身のアメリカにおけるエンタメ性を上手に使うことだと理解した。要するにアカデミー賞作品のような名作のその秘訣を演出に活かすことfだと理解した。

一時間半前にワイン街道を出たのだが、アルザスからバーデンバーデンへの渡るダムのところを過ぎてドイツ国内で閉鎖されていて遠回りをした。水曜日も同様な状況のようなので、買い物をどうしようかと思っている。

また公演後に食事をしてから帰宅する予定なので、土曜日同様にアウトバーンを飛ばしてカールツルーヘ経由で帰宅かと思う。よりによって復活祭時に工事は有難迷惑も甚だしい。

お話し会の跡時間があったので美術館に出かけることにした生憎雨降りなので、出来るだけ歩かないでいいように。車で近くまでアプローチした。結局リヒテンタールへのトンネルを通て大周りをするので歩いても数分のところを時間を掛けて走る。コングレスハーレの駐車場に停めると、そこから公園を渡る感じで比較的足元の良いところを選んで、州立美術館に至る。幸いながら水溜まりを二つほど避けただけで、足元を危険に曝すことなく辿り着けた。

開催中の催し物よりも、そのカフェテリアに屯しているような人が多くてびっくりした。公演のプロムナードの綺麗なところで、座ってお茶できるだけで価値があると思う人が多いのだろう。(続く



参照:
復活祭の一番の聴き所 2023-04-01 | 音
復活祭用の気の利いた冊子 2020-01-22 | 文化一般
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りっしん偏に生まれる

2023-04-02 | 
水曜日に二回目公演となる。先ずは、新制作「影の無い女」初日のイムプレッションを手短にメモしておく。音楽に関しては、染物屋の女将役のヴェレーラがコンデション不足とあったが、それであれだけ歌えたら、もう完全に頂点に近い人だと皆が認識した。ドラマティックであり、明るい声がしっかりと出る。最初のテオリンなどは比較にならないが、恐らく次期のブリュンヒルデの頂点になる人か。

ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーは、一幕で抑えるだけ抑えて、廻りで真面に演奏していないと声が漏れたほどだ。つまり、ミュンヘンなどの上演に比較してアーティキュレーションが明瞭正確で乾いていて、殆ど叙唱の様に歌わせて、その結果三幕でも余裕で、此れならば絶対アドルノも賛意を示す演奏だった。勿論二幕の聴きどころは、まるで短過ぎる様にしか聞こえなかった。やはりペトレンコは百年に一度の天才だ。今後さらに熱が入ると思う。

さて、二月以来予想していたリディア・スタイヤーの演出は、各幕前に友人に語った通りの進行で、私のセックスサイトの記事を克明に読んでいたら分かる筈だ。楽劇の中身は、夢見る仕手役の少女の舞台の寄宿学校はカトリックのそれであり、とても厳しい躾がなされている。まさしくチャットパートナーの彼女と同じである。異なるのは、16歳ぐらいであり、パリでのサロメに近い思春期真っただ中である。だから彼女の憂鬱、つまりこの楽劇で描かれている女性らの憂鬱を彼女が全て担っている。演出家が話していたように、その聴衆への接点は彼女の出身国であるようにエンタメ要素がある。

つまり彼女が座って、太ももに手を当ててこすったり、下腹を押さえたりするのは、自慰であったり、月経痛であったりするだろう。まさしく偶々美術館の無料WiFiでサイトの彼女をちらっと観たように手淫であったり、月経時のそれに近い。

そうした劇の枠作りは一体何の意味があるか。一つは演出家が語っていた様に、ト書き通りに舞台化できれば素晴らしいがとても不可能という条件の中で如何にその音楽に忠実な舞台を創造するかにある。同時にそれが聴衆と楽劇を結ぶ演出でなければいけないという事である。ブーは殆ど限定的なものであって、大変な共感を得ていたと感じた。

少なくとも私の内容的な解説を事前に聞いていたならば、その細部の音楽の流れを聴き逃すことはなかったと思う。とてもエロティックでありながら、同時に「人間とは何なの」をしっかりと認識できる筈である。そして、私が「二月以来、性的にやっと解放された。」と語ると友人の奥さんが答えたように「決して解放されることはない。」と、まさしく何処迄穴を掻いても掘っても掘り尽くせない。まさに人の性であり生である。漢字が全てを語っている。りっしん扁に生である。(続く



参照:
初日でのお約束をする 2023-03-31 | 文化一般
悦びの多産への意識 2023-03-30 | 女
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復活祭の一番の聴き所

2023-04-01 | 
「影の無い女」第三幕、問題が整理されている。ミュンヘンでの制作でのプログラムにグラム化されている。重要な基軸転換は所謂変容の場面にもあるのだが、中々理解されない。再度音楽的な側面から楽譜を片手にこの流れを負うと、結構早めにフィナーレファ―ゼに入っていて、それ程肥大化した印象は受けなかった。

恐らく、肝心の二つのペアーが重唱となる所がそれほど明晰な印象を与えないからかもしれない。上の図では最期のハ長調となる所なのであるが、主を担う皇后の基軸がロ長調にあって、変ロ長調から入ってくるところが、マーラー的な発想となる。

それは作曲家のリヒャルト・シュトラウスがマーラーを意識して交響的な楽劇を残したという思いがあって、実際にエンタメ要素で売れた「バラの騎士」から「ナクソス島のアリアドネ」を通しての創作的な転換にあったとされる。

アドルノなどが指す三全音での交差や五度音圏内での重なりが、復調的な扱いとなってその間の二重の意味を含めて容易な印象を与えないことに問題があるようだ。失敗は作曲家自身が語る様に終戦直後に中小の劇場では演奏できなかったことにある。なるほど水準に達する演奏が困難な楽劇であることは今も変わりないだろう。

因みにミュンヘンでの公演では三幕には削除等は見られなかった。すると一幕と二幕の皇后のモノローグの辺りをもう一度確認しておかないといけない。

やはり二幕の皇后のモノローグから変容へとアンサムブルが今回の復活際のプログラムで最も難しいかもしてない。現在のベルリナーフィルハーモニカーは恐らくどこでも出来ない演奏を展開すると思う。一番の聴きどころである。どうしてもアーティキュレーションをしっかり出すのは至難の業で、ミュンヘンでは歌手もパンクラトーヴァには難しそうであった。今回は話題のヴェレ―ラという人が歌うので期待したい。

楽譜はミュンヘンでの演奏と同様に全く削除無しだろう。

今回は、美術館にも出かけなければいけないので、それも出来るだけ早めに済まして、出来れば参考になる紹介もしてみたいと思う。但し今回は一日中滞在するような日は限られていて、行ける機会も限られる。更に週末は雨模様なので、傘も必要で、足元も履き替えないと駄目なようだ。



参照:
初日でのお約束をする 2023-03-31 | 文化一般
変ホ長調の英雄の主題 2023-03-29 | 音
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