Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

マエストロ・ムーティに再会

2017-01-27 | 
マエストロ・ムーティ―指揮のコンサートは二回目の体験だった。一回目は日本デビューのヴィーナーフィルハーモニカ―にカール・べーム博士に帯同してきた時だった。その前にはクラーディオ・アバドが同行していたので、どうしても比べられることもあったと記憶する。北イタリアのアバドとナポリ出身のムーティーは対照的だった。

その時もヴィヴァルディ―とモーツァルトとブラームス四番の短調交響曲を組み合わせたプログラムで、アンコールは運命の力序曲だったと思う。1975年のことだったようで、マエストロは34歳だったようだ。そして現在は75歳のようだ。40年間殆んど変わっていないのには驚いた。なるほどその指揮は先ごろ亡くなったジョリュジュ・プーレートル宜しくその指示が極力節約されていて、その点においては名匠らしくなっていた。それでもあの若い時からのプログラミングなどの跳ね上がり者のような感じは今でもあって面白かった。

一方シカゴ交響楽団はショルティー、バレンボイムに続いて三人目の指揮者として聞くことになる。一曲目のヒンデミットの弦と金管の為の音楽が典型的であるが、ベルリンのフィルハーモニーが如何にインターナショナルになったとしてもあのような明るい音色でこの曲を演奏することもなく、指揮者もそのままにしておくことはないだろう。要するにこの指揮者にとってはそのようなところまではどうでもよいのだろう。

当日のオリエンテーションはそのヒンデミットの作品に焦点が当てられていて、その所謂新古典主義的な作風が芸術哲学的な面からそして楽譜へと戻って紹介された。建築を例に挙げて世界中に同時期に建てられた、ドイツではナチズムの建物などの人をあまり寄せ付けないながらもアンティークな柱状のファサードにおいて飽く迄も客観主義にあるそれらの美が説明されるのである。そしてそれは音楽においては具体的には、アンティークを憧憬したフランスバロックをまたそれを本歌取りしているバッハのフランス風序曲などの例を流しての説明となる。勿論バロック芸術のそれとはそもそもアンティークは異なるのだが、基本的には自失感に置かれる客観的な芸術の力としてヴェルサイユ宮殿などの大きさの圧倒感がそこに挙げられる。

つまり、ヒンデミットは色彩感のある木管を排して金管と弦の音楽として音色を排したモノトーンとそしてどこまでも客観的な畏敬の念や呼び出しの歌をそこに書き込んだとなる。それ故にシカゴ交響楽団のあまりにもつやのある輝く音色の吹奏楽にならないように留意しなければいけない ― ショルティー指揮におけるあの無機的な響きはまた別のものだった。この点において、ムーティーが、アバドやシャイーとは全く異なる市場で活躍をしていたことがはっきりするだろう。(続く



参照:
地方の音楽会の集客状況 2017-01-23 | 文化一般
復活祭音楽祭の記録 2017-01-21 | 文化一般

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