Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

復活祭音楽祭の記録

2017-01-21 | 文化一般
ムソルグスキー作曲「ボリスゴドノフ」を流している。来週のシカゴ交響楽団演奏会への準備でもある。手元にある録音は、ザルツブルクの復活祭で演奏された機にフィルハーモニーで録音されたものである。クラウディオ・アバド指揮ベルリナーフィルハーモニカ―の代表的な録音だと思うが、今回聞いてみるとなぜか物足りない。響きも美しく明晰な線も出ているのだが、歌詞と音楽の特に歌詞の多い場面に来ると違和感のようなものを感じだした。夏にはゲルゲーエフ指揮でヴィーンの座付き管弦楽団演奏で同じものを体験しているがこれと比べて優れた面はそれほどなかった記憶しかない。この曲も前任者のフォンカラヤンが得意としていたのだ。

先日腰痛で横になりながらつまらない新書本を開いた。丸山眞男の音楽に関する証言として書かれた本だが、上手にエピソード等をまとめているが如何せん「不肖の弟子」の仕事なのでその音楽への見解が充分に読み込めていない。フルトヴァングラーへの見解以外には全く期待していなかったのだが、ヴァークナーなどについても触れられていて、逆に丸山の音楽や芸術恐らく美学や哲学に関する見識の限界が弟子によって明らかにされることになっている。趣味教養の音楽愛好者としては素晴らしいものであるが、我々はどうしてもこうした日本を代表する学者にはそれ以上のものを期待してしまうのである。

例えばヴァルキューレ第二幕二場のヴォータンの歌からフリッカの責めに移る部分での下降旋律の挫折といわれるような動機を挙げて語らしているのだが、なるほどそこからの変容が大きな意味を持っていても、ここにおいては明らかな進行になっていてそこで話題となっている様な楽譜を読み込む個所ではない。寧ろ我々は丸山がそうした権力の滅亡についてどのような意識でいたかなどに興味が向かう。それは同様に楽匠がスイスでの個人的な一悶着を超えてどのような世界観で創作にあたったかということにもなる。正しく芸術の受容の本質はそこにあって、不肖の弟子たちのような大衆が娯楽にどのように反応するかというようなことではないのである。

折角であるから、お蔵入りにしていたフルトヴァングラー指揮の最後の録音とフォンカラヤン指揮のザルツブルクの復活祭のあとに録音された演奏を聴き比べる。キリル・ペトレンコ指揮でも2014年と2015年を比較してみる。大成功の2015年の録音でも寧ろ当該の動機よりもその前に同じように剣の動機が鳴り響いたあとに出て来る指輪の動機の方が印象に残る。フルトヴェングラー録音の方はズートハウスなどの達者な歌手が歌う叙唱風のところが絶品である。

こうして音盤などを聞き比べしてしまうとどうしても一つの結論めいたことへと思考が向かってしまう。特にフォンカラヤンの「ヴァルキューレ」などはこの復活祭に復活上演されるというが、この録音を聞く限りにおいては、とてもその企画を疑問視するしかないこととなる。

そのLPボックスの解説書にはカラヤンの演出に関しての文章が載っている。それによると音楽面でフォームを大切にして対位法書法などに留意しながら指揮者の経験の中でヴァークナーの楽劇を主要レパートリーにしていったというような書き方をしている。そしてヴィーンに続いてザルツブルク復活祭を始めるに及んで「権力者とその葛藤」を中心に描くことになったのだという。つまり、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」並みの意識での自己陶酔の演出だったとなる。

この文章を読んでも分かるように、まさしく音楽の正しいスタイルを全く表出できなくても同じように自らの舞台つくりにこの楽劇を利用するというその姿勢が演出の特徴となる。それをこの復活祭に50年目の記念ということで1967年のカラヤン演出を復刻させるというのだ。バイロイト初代音楽監督はカラヤン財団との関係でその娘などを利用しながら芸術監督になろうとでもいうのだろう。兎に角考えていることが時代錯誤が激しいようで、ビジネスモデルが極東市場狙いとはいってもそのようなものを有り難がる人が今時いるのだろうか?



参照:
水道水に癒されるこの頃 2016-07-02 | 雑感
ネットでの記録を吟味する 2015-11-30 | 音

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