新聞連載「シュテファン・ゲオルゲ」を読んでいる。一ダースの続きが区切れる所で、一通りのゲオルゲ派の中心人物が顔を揃えたかに見える。その中身については一向に知識がないが、そうした印象を与える連載となっている。その一派の活動内容を示すかのように、その出会いなどにいつも形而上で「何かが起こる」進行が面白い。
同じビンゲンのカール・ヴォルフスケールは、ダルムシュタット生まれのヘッセン人で、ユダヤ人銀行家の宮廷ユダヤ人家系であり、12世紀にマインツにやってきた血筋は、ローマ・ユダヤ・ドイツを体現していると1933年の亡命以後も変わらなかったと言う。兎に角、門徒には似つかわしくない190CMの大柄な髭面は、ミュンヘンの「シュヴァビングのゼウス」と呼ばれた男で、そこでゲオルゲに出会い、人生をかえる。難しい作家ゲオルゲには故意に距離を置き、その作品から真価を読み取ろうとする姿勢をとる。その姿勢が逆に、作家の世俗的な像をタブー化して神格化していくと言うのが面白い。
そこから紹介されて1899年8月バード・ホムブルクからビンゲンにやってくる若い少年がフリードリッヒ・グンドルフで、背が高く細身の体に揺する肩に美しい童顔の頭が乗る男は、ゲオルゲの理想の少年像に適った。深く光り輝き愛に満ちる彼を喜び、そして期待するとして直ぐにミュンヘンのサロンにてお披露目をしている。こうして高等専門学校の数学教授の息子は、ゲオルゲに熱狂して、「私は、なんと深く、暫し我々が導くドイツと欧州のそれとなるゲオルゲの罪なのだ」と、この 大 人 物 を称え、ゲオルゲをカエサルとした。ニッチェの現在から見る歴史の立場にいた詩人の方は、歴史哲学的な扱いに関心を抱かなかったようだが、それは19世紀を通したヘーゲルの歴史感にも影響されていることになる。
運命的な出会いはヴォルフスケールにも起こったのだが、あくまでも権威ある教養である詩をザッハリッヒに扱う彼とは別に、ミュンヘンで身近にいたテオドール・レッシングは、ゲオルゲを指して「亡命中の憂鬱な王子」と呼んで様式的な情念は決して悪い芝居ではないとしている。
1897年11月にデン・ハーグなどに続き、ベルリンのシャルロッテンブルクのレプシニス邸ではゲオルゲの朗読会が開かれ、ニッチェの女友達ルー・サロメなどを集めている。高名な指揮者の母親フルトヴェングラー博士夫人は、独特の雰囲気に痺れを切らし、腰を浮かしそわそわして、それを批判するグンドルフの一方、詩人に気を使い取巻くヴォルフスケールを冷や冷やさせた。
朗読会の様子を伝えるオスカー・シュニッツは、「当時非常に変わった風評が乱れ飛んでいた」と回想して、その「裸のエフェーブ像に包まれた象牙の椅子に腰を降ろし朗読する奇妙な様子」を伝えている。
マインツ生まれのアルフレッド・シューラーは、薄っすらと若ハゲした小太りの男の一人であり、二重顎の太った顔に幾らか斜視気味の大きな青い目をもっていた。一生涯を通して、熱狂とみすぼらしさの間を泳いだこの男は、ヴァルター・ベンヤミンに「極度に好奇心に満ちた人物像」と呼ばれている。その「死の世界」の講義に感動した詩人リルケは、1923年のその早い死を受けて、これをして最も生涯価値ある影響と呼んでいる。後の鍵十字となる、当時はスカンジナヴィアなどの一部でしか知られていなかった、古い卍をエロスと組み合わせることで広く普及させ、「性行為の幾何学」を世に拡げた。そこでは、合一と血こそが全ての源となり、同性愛の交わりに大きな意味を持たせる。グノーシスでもあってドイツ最後のカター教徒と呼ばれる。
その血に対するアンチテーゼが、ルートヴィク・クラーゲスの言う精神である。ラッシングの友人でもある「生の哲学」者として知られているが、「啓蒙の弁証法」や「ロゴツェントリズム」などは彼の創作語である。理性と進歩、資本主義と文明、血を越えたユダの勝利と生を越えたエホバの勝利を同じく精神とする。上シューラーの世界を論理的に整理して自らの業績としたことで、「知的泥棒」と罵られて、ゲオルゲもそれに近い判断を下していたとされる。
これらをして一派とするばかりか、ミュンヘンの「光る血」の威力を中心に添えた「宇宙」と言われるオカルトグループの中心人物とすることが出来るようだ。
一先ず、これで登場人物は揃った。
参照:
Thomas Karlauf "Stefan George"(Die Entdeckung des Charisma)1-12
どこかで聞いたような話 [ 文学・思想 ] / 2007-08-09
同じビンゲンのカール・ヴォルフスケールは、ダルムシュタット生まれのヘッセン人で、ユダヤ人銀行家の宮廷ユダヤ人家系であり、12世紀にマインツにやってきた血筋は、ローマ・ユダヤ・ドイツを体現していると1933年の亡命以後も変わらなかったと言う。兎に角、門徒には似つかわしくない190CMの大柄な髭面は、ミュンヘンの「シュヴァビングのゼウス」と呼ばれた男で、そこでゲオルゲに出会い、人生をかえる。難しい作家ゲオルゲには故意に距離を置き、その作品から真価を読み取ろうとする姿勢をとる。その姿勢が逆に、作家の世俗的な像をタブー化して神格化していくと言うのが面白い。
そこから紹介されて1899年8月バード・ホムブルクからビンゲンにやってくる若い少年がフリードリッヒ・グンドルフで、背が高く細身の体に揺する肩に美しい童顔の頭が乗る男は、ゲオルゲの理想の少年像に適った。深く光り輝き愛に満ちる彼を喜び、そして期待するとして直ぐにミュンヘンのサロンにてお披露目をしている。こうして高等専門学校の数学教授の息子は、ゲオルゲに熱狂して、「私は、なんと深く、暫し我々が導くドイツと欧州のそれとなるゲオルゲの罪なのだ」と、この 大 人 物 を称え、ゲオルゲをカエサルとした。ニッチェの現在から見る歴史の立場にいた詩人の方は、歴史哲学的な扱いに関心を抱かなかったようだが、それは19世紀を通したヘーゲルの歴史感にも影響されていることになる。
運命的な出会いはヴォルフスケールにも起こったのだが、あくまでも権威ある教養である詩をザッハリッヒに扱う彼とは別に、ミュンヘンで身近にいたテオドール・レッシングは、ゲオルゲを指して「亡命中の憂鬱な王子」と呼んで様式的な情念は決して悪い芝居ではないとしている。
1897年11月にデン・ハーグなどに続き、ベルリンのシャルロッテンブルクのレプシニス邸ではゲオルゲの朗読会が開かれ、ニッチェの女友達ルー・サロメなどを集めている。高名な指揮者の母親フルトヴェングラー博士夫人は、独特の雰囲気に痺れを切らし、腰を浮かしそわそわして、それを批判するグンドルフの一方、詩人に気を使い取巻くヴォルフスケールを冷や冷やさせた。
朗読会の様子を伝えるオスカー・シュニッツは、「当時非常に変わった風評が乱れ飛んでいた」と回想して、その「裸のエフェーブ像に包まれた象牙の椅子に腰を降ろし朗読する奇妙な様子」を伝えている。
マインツ生まれのアルフレッド・シューラーは、薄っすらと若ハゲした小太りの男の一人であり、二重顎の太った顔に幾らか斜視気味の大きな青い目をもっていた。一生涯を通して、熱狂とみすぼらしさの間を泳いだこの男は、ヴァルター・ベンヤミンに「極度に好奇心に満ちた人物像」と呼ばれている。その「死の世界」の講義に感動した詩人リルケは、1923年のその早い死を受けて、これをして最も生涯価値ある影響と呼んでいる。後の鍵十字となる、当時はスカンジナヴィアなどの一部でしか知られていなかった、古い卍をエロスと組み合わせることで広く普及させ、「性行為の幾何学」を世に拡げた。そこでは、合一と血こそが全ての源となり、同性愛の交わりに大きな意味を持たせる。グノーシスでもあってドイツ最後のカター教徒と呼ばれる。
その血に対するアンチテーゼが、ルートヴィク・クラーゲスの言う精神である。ラッシングの友人でもある「生の哲学」者として知られているが、「啓蒙の弁証法」や「ロゴツェントリズム」などは彼の創作語である。理性と進歩、資本主義と文明、血を越えたユダの勝利と生を越えたエホバの勝利を同じく精神とする。上シューラーの世界を論理的に整理して自らの業績としたことで、「知的泥棒」と罵られて、ゲオルゲもそれに近い判断を下していたとされる。
これらをして一派とするばかりか、ミュンヘンの「光る血」の威力を中心に添えた「宇宙」と言われるオカルトグループの中心人物とすることが出来るようだ。
一先ず、これで登場人物は揃った。
参照:
Thomas Karlauf "Stefan George"(Die Entdeckung des Charisma)1-12
どこかで聞いたような話 [ 文学・思想 ] / 2007-08-09
僕も前はかなり新聞連載をよんだことはあるんですが、今はあまり読んでいません、でも小説は好きで。
よくゲーテなんかよく読みましたね勿論若い頃の話ですが、小説が好きなんですか。
最近は恋愛小説ばかり読んでいますが。小説を読んでいると時間のの経つのも忘れますね。