ソヴィエトを代表する作曲家ショスタコヴィッチの生誕百年である。それを記念して、交響曲作曲家の全集が発売される。十年近く掛かって録音されたものの再発売である。十枚組みで35ユーロと格安なので、ベートーヴェン交響曲全集のように一家に一セットと促販したいところだろう。その価値があるのかどうか、二週間以上前の新聞評を読んでみる。
十五曲もの交響曲を書いた有名交響曲作家は、ハイドンやモーツァルトの時代を除くとベートーヴェン以降はほとんど存在しない。この作品量は交響曲の歴史に深く関わっているのだが、一家に一セットの録音なのかどうかもここに関わっている。今回発売の全集は実力派指揮者ヤンソンスが世界の一流楽団を指揮して完成させたものである。交響曲以外に、幾つかの管弦楽曲もカップリングされている。
さて、新聞批評では、シュスタコーヴィッチは「社会主義リアリズム」に翻弄されて、気難しい顔をしながらも共産党当局に決して跪いていたのではないとする見解がこの全集で語られると言う。
具体的には第九交響曲のソヴィエトの勝利は、冒頭で指パッチンのおかしなブリキの兵隊の行進となって、いつもの ば か 者 音楽に昇華されるとして、ボルシェヴィキの理想はグロテスクに歪められて、公に嘲られていて、当局が作曲家を拘束しなかったのが不思議であるとする。
こうした評を読むと、真っ先に思い出すのが冷戦下に持て囃されて映画化された、西側に持ち出された「ショスタコーヴィッチの証言」と題された書籍の内容を思い出す。しかし、なぜまたこのような「リアリズム」が1945年にはソヴィエトで問題とならなかったのかの疑問は残る。
同じようにプラウダ批判後に発表された第五交響曲の暗黒から勝利の光への行程が、その大行進曲がこの演奏では忘我と破局の間を彷徨い崩壊する、生の野蛮なぎくしゃくした音楽になっているとする。既に、中立的なフランス序曲風の冒頭が恐怖でいきり立つ風情を以って丁寧に文節されると言う。
ヴァイオリンに現れる主要主題は、ただ嘆くのみならず、死体のように色あせて、初めから 美 学 的 な思考を成立させない。フィナーレの行進曲は、最初から先行きを予備する差異を表現している。ヤンソンスの指揮は、トランペット、トロンボーン、チューバの引きずり重々しい導入とアッチェランドの鞭打つ主部とのテンポ指示のコントラストを初めて明確にして、その崩壊に追い立てるとする。バーンスタイン指揮の明快な情感に満ちた演奏と比べると二分も長いと言う。
ヤンソンスの指揮は、気づかないような対旋律を描いて、アゴーギクと色彩の影を微妙につけながらの演奏なので、特別精妙に解釈されていると言う。作曲家自身後年この曲について、「これは賛美するものではなく、これが判らなければ完全にばか者に違いない」と語っているようだ。
この新聞評を追って行くと、「証言」における解釈の手助けがどうしても思い出される。それとは反対に、ここに1950年代終わりの、ドイツARD特派員ゲルト・リューゲの名言が「迷言」として掲載されている。それは、「気難しい顔は表面だけで、実は当局がフォーマリズムから救ってくれたお蔭で作曲家は大変満足している。」と言うような主旨の発言である。
これは、現在から見るとかなり要を得ているように見えるがどうだろう。交響曲で言えば第四番以後の変遷を見れば理解出来るのではないだろうか。今回の全集が、言うように当代唯一最高のシュスタコーヴィッチ指揮者の解釈であるとするならば、確かにその演奏の嗜好や解釈の仕方が、作曲家の音楽そのものに当てはまるような気がする。
リトアニア人であるマリス・ヤンソンスは、高名な指揮者アルヴィド・ヤンソンスの子息であり、大指揮者ムラヴィンスキーの弟子である。子供のころから、三人でショスタコーヴィッチの作品について語り合ったと言うから、その作曲家直接の薫陶は最も受け継いでいるかもしれない。この指揮者が、コンセルトヘボーオーケストラや西側での交響楽演奏で見せる食い違いと物足りなさはまさにここに源泉があるような気がするがどうだろう。
もう一つこの批評の中で面白い注釈は第十番の批評にあって、三楽章の謎に満ちたホルンのパストラール風のエコー主題に*ウラディミール・カーブジツキーとベルリオーズのイデー・フィックスの合体をヤンソンスは刻印していて、それは作品に頻繁に現れる作曲家自身を示すD-Es-C-H(DSCH)動機に呼応しているとする。その主題(独仏混合音名でE-La-Mi-Re-A)は、ショスタコヴィッチの恋人Elmiraの名前に由来しているらしい。
このシリーズの第十五交響曲の録音のみ手許にあるが、交響曲の幕引きどころか、どうしようもなく薄っぺらい響きと音楽を聞いていると、大管弦楽文化の幕引きをここに示しているような印象が強い。なれば黄昏を奏でる其々の交響楽団の演奏を十枚組みセットで聴いてみようと思う。
ショスタコーヴィッチの作品は、どのようなプリズムを通したにせよリアリズムそのものであるようだ。
*Vladimir Karbusicky博士は、プラハの春で失脚した構造主義の音楽学者で、ボヘミア音楽の研究家として、亡命後はハンブルクなどで教鞭を取った。
十五曲もの交響曲を書いた有名交響曲作家は、ハイドンやモーツァルトの時代を除くとベートーヴェン以降はほとんど存在しない。この作品量は交響曲の歴史に深く関わっているのだが、一家に一セットの録音なのかどうかもここに関わっている。今回発売の全集は実力派指揮者ヤンソンスが世界の一流楽団を指揮して完成させたものである。交響曲以外に、幾つかの管弦楽曲もカップリングされている。
さて、新聞批評では、シュスタコーヴィッチは「社会主義リアリズム」に翻弄されて、気難しい顔をしながらも共産党当局に決して跪いていたのではないとする見解がこの全集で語られると言う。
具体的には第九交響曲のソヴィエトの勝利は、冒頭で指パッチンのおかしなブリキの兵隊の行進となって、いつもの ば か 者 音楽に昇華されるとして、ボルシェヴィキの理想はグロテスクに歪められて、公に嘲られていて、当局が作曲家を拘束しなかったのが不思議であるとする。
こうした評を読むと、真っ先に思い出すのが冷戦下に持て囃されて映画化された、西側に持ち出された「ショスタコーヴィッチの証言」と題された書籍の内容を思い出す。しかし、なぜまたこのような「リアリズム」が1945年にはソヴィエトで問題とならなかったのかの疑問は残る。
同じようにプラウダ批判後に発表された第五交響曲の暗黒から勝利の光への行程が、その大行進曲がこの演奏では忘我と破局の間を彷徨い崩壊する、生の野蛮なぎくしゃくした音楽になっているとする。既に、中立的なフランス序曲風の冒頭が恐怖でいきり立つ風情を以って丁寧に文節されると言う。
ヴァイオリンに現れる主要主題は、ただ嘆くのみならず、死体のように色あせて、初めから 美 学 的 な思考を成立させない。フィナーレの行進曲は、最初から先行きを予備する差異を表現している。ヤンソンスの指揮は、トランペット、トロンボーン、チューバの引きずり重々しい導入とアッチェランドの鞭打つ主部とのテンポ指示のコントラストを初めて明確にして、その崩壊に追い立てるとする。バーンスタイン指揮の明快な情感に満ちた演奏と比べると二分も長いと言う。
ヤンソンスの指揮は、気づかないような対旋律を描いて、アゴーギクと色彩の影を微妙につけながらの演奏なので、特別精妙に解釈されていると言う。作曲家自身後年この曲について、「これは賛美するものではなく、これが判らなければ完全にばか者に違いない」と語っているようだ。
この新聞評を追って行くと、「証言」における解釈の手助けがどうしても思い出される。それとは反対に、ここに1950年代終わりの、ドイツARD特派員ゲルト・リューゲの名言が「迷言」として掲載されている。それは、「気難しい顔は表面だけで、実は当局がフォーマリズムから救ってくれたお蔭で作曲家は大変満足している。」と言うような主旨の発言である。
これは、現在から見るとかなり要を得ているように見えるがどうだろう。交響曲で言えば第四番以後の変遷を見れば理解出来るのではないだろうか。今回の全集が、言うように当代唯一最高のシュスタコーヴィッチ指揮者の解釈であるとするならば、確かにその演奏の嗜好や解釈の仕方が、作曲家の音楽そのものに当てはまるような気がする。
リトアニア人であるマリス・ヤンソンスは、高名な指揮者アルヴィド・ヤンソンスの子息であり、大指揮者ムラヴィンスキーの弟子である。子供のころから、三人でショスタコーヴィッチの作品について語り合ったと言うから、その作曲家直接の薫陶は最も受け継いでいるかもしれない。この指揮者が、コンセルトヘボーオーケストラや西側での交響楽演奏で見せる食い違いと物足りなさはまさにここに源泉があるような気がするがどうだろう。
もう一つこの批評の中で面白い注釈は第十番の批評にあって、三楽章の謎に満ちたホルンのパストラール風のエコー主題に*ウラディミール・カーブジツキーとベルリオーズのイデー・フィックスの合体をヤンソンスは刻印していて、それは作品に頻繁に現れる作曲家自身を示すD-Es-C-H(DSCH)動機に呼応しているとする。その主題(独仏混合音名でE-La-Mi-Re-A)は、ショスタコヴィッチの恋人Elmiraの名前に由来しているらしい。
このシリーズの第十五交響曲の録音のみ手許にあるが、交響曲の幕引きどころか、どうしようもなく薄っぺらい響きと音楽を聞いていると、大管弦楽文化の幕引きをここに示しているような印象が強い。なれば黄昏を奏でる其々の交響楽団の演奏を十枚組みセットで聴いてみようと思う。
ショスタコーヴィッチの作品は、どのようなプリズムを通したにせよリアリズムそのものであるようだ。
*Vladimir Karbusicky博士は、プラハの春で失脚した構造主義の音楽学者で、ボヘミア音楽の研究家として、亡命後はハンブルクなどで教鞭を取った。
「気難しい顔は表面だけで、実は当局がフォーマリズムから救ってくれたお蔭で作曲家は大変満足している。」
のくだり、面白いですね。
あえて「リアリズム」に拘ったヤンソンスの演奏は、もしかするとムラヴィンスキーの相似形なのかもしれないな…こちらのエントリを拝見してふと思いました。オケと周囲の環境と録音の仕様が違うだけで、ヤンソンスがやろうとしていることは大先輩と同じなのでしょうか。。
オケを変えてのヤンソンスの全集は面白そうですね。
私も昨年、彼の実演に横浜で接しましたが、
そのアゴーギクには半ば面食らいました。
ショスタコーヴィチの音楽は、
言わば「謎解き」のような形で聴けるのが興味深いかと思います。
音楽を聴いて「迷う体験」はあまり他では味わえません。
永遠の謎解きではありますが…。
当局に制限されてから、秘め事に浸っていった経過と言うか、それそのものを聴いてみたい訳です。あのしかめっ面のメガネの奥です。
この批評でも本場物評価として、隔世遺伝的なムラヴィンスキーを挙げていますが、勲章をつけた師匠は作曲家よりも遥かに大時代的でした。ロシアンモダニズムのように徹頭徹尾杓子定規で貫徹していましたからね。
もちろんドライヴの豪快さとかは、ロシア楽派なんでしょうが、ヤンソンスの場合はメディアも揃ってみんながよってたかって叩き易くて、余り偉くないのが良いのではないでしょうか。変なレーニン像のような虚像が出来ない。
それで、如何に交響曲(作曲家)を美化することなく曝け出しているかが、楽しみです。少なくとも指揮者自身は何も失うものが無い。
お詫び:
上記記事に一部混乱を招くような、訂正箇所があったことをお詫び申し上げます。批評文を読み下しで、原曲に戻ることなく、記憶を頼りに書いておりますと誤りになかなか気がつきません。早速訂正を致しました。
Sonnenfleckさんが言われるように、全集録音の予定は無かったかもしれません。ミュンヘンで難しい曲を演奏そして録音しているうちに材料が揃った。ただ、指揮者と作曲家との繋がりは決して後付でもないように思えます。殆ど迷いが無いと言うのが近いかも知れません。
美意識の強い指揮者にはどうしようもない楽想も内容も結構ありますからね。格好をつけずに判りやすくストレートに提示出来ていれば面白いですね。
(書法自体、ピアノの左手の無造作な和音と、右手でのフレーズの「適当」そのもののような「引き延ばし」などが透けて見えるような、「無作為」と言って良いような部分が頻出したり、ジャンル問わず「同類」の音楽が頻出したりと、「とてもマズイこと」が非常に多いです。)
仰る通りの「リアルタイム」で、彼の「傑作」は、成るべくして「出来上がる」のでなく、何かの具合で「そうなっている」ので、彼自身どうも「狙っている」訳でもないようです。(「こうなってしまった」という感じの言い方を、自作に関して良くしていますが、あながち体制への「言い訳」とも思えません。)
「時事的」というのは用語として適当ではありませんが、
交響曲においても、なんだか「そのようなもの」が、晩年に至るまで「混じっている」のは、この「速筆」が影響しているように思われます。
彼は、当座取りかかる作品の「外見」を決定すれば、その作品の大半は「完成した」ようなもので、そこで「差異化」は為されたことになり、彼は「同じ音楽」を、そこに作曲するのですが、「容れ物」と「時間の経過」という「違い」のために、「違った結果」が生まれてくる、という訳です。こうして、ことごとく「ランダムな成果」がもたらされ、我々は煙に巻かれる、という感じでしょうか。
それはそれで面白く、好きな作品もあるにはあるのですが。
そうした見解からすると、美学的に交響曲と名づけてよいものか、どうか?
ブルーノ・ヴァルターが後押しした第一番などは異例な大成功をしてますが、そこから始めての作品の「外見」が変遷していく。その「リアルタイム」を全集で楽しみたい。
「外見」ではいろいろと思いつくことがありますが、先ずは順を追っていきたいですね。
一番は、マルティノンの古い録音を持っていますが、そこではフランスの新古典主義的な交響曲の印象があります。実際、こうしたオーケストレーションをする日本の作曲家も多い。
該当のCD全集はどうも配給が遅れているようでまだ手許には届いていません。ベルリンの楽団では音色の軽快な印象は出ないでしょうから、管よりも弦の強いイントネーション付けで河に立ち込めるような霧やグロテスクやらが聞けるのでしょうか?