Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

アーモンドの咲く里に

2007-03-16 | 試飲百景
暫らくご無沙汰していたギメルディンゲンの醸造所にお邪魔する。そこのワインは15年以上のお付き合いがあるが、これまでに購入した量は限られていて、何時もご進物用にとか言い訳をしていたような想いがある。

その理由は、地下の蔵出しレストランでここのワインを愉しみつつ馴染んできたのが、余計にここのワインを自宅へと運ぶ手間を避けさせたからのようである。記憶を辿れば、以前は些か硬さがあって素晴らしい香りと透明さをそれが隠したような趣があった。その色と味の透明度は、推薦に値するものであったが、レストランから家路につくとなぜか深酔いする傾向があったのも事実である。

その理由として、そのレストランで飲み食いするときは、手ごろで素晴らしいワインに舌鼓を打ち過ぎて、ご機嫌なうちに酒がすすんだ事が挙げられる。同時に硬さに相当する崩れないワインは、アルコールでふにゃふにゃになったこちらの体に堪えたのである。

その後、息子さんが代を継いで直ぐに、試飲購入した覚えがあるが、引き続き購入する事は結局無かった。そしていま、また同じように語るのである。

「ネットでお宅のワインの噂を多く読んで、それも日本語のサイトに書いてあるので、これは把握しておかなければいけないと思ってね。」

しかし今回は、どうにも中途半端な時期で、僅か二種類のそれも小瓶以外は売り切れていると先代の奥さんは説明する。それでも、嬉しいことに通常半額から瓶代を割引してくれると言う。試飲用に残してある大瓶から、その二種類を試飲する。

先ずは、2005年産ルッパーツベルガー・リンツェンブッシュのリースリングキャビネットを燻らすと思いの外香りが高い。この地所らしく ― なにせリンツェンつまりレンズ豆を想像してしまうから ― 薄平たい印象はあるが、それもここのワインの特徴とも相俟っている。しかし、代替わりしたゆえか市場に敏感で、先代の醸造に係わらず、硬さが消えて繊細さが増してきている。しかし後に自宅で小瓶を開けると、熟成がその瓶のせいか進んでいて、色も既に黄金色に傾いていた。

二つ目に、2005年産ケーニヒスバッハーオェールベルクのシュペートレーゼを試すと、これまたシュペートレーゼの重みが慎重に避けられて、玉露のような深い旨味を堪能できる。シュペートレーゼとして秀逸なのだ。奥さんが言及するように軽めのワインへの趣向にも留意している。

ギメルディンゲンは、ワイン街道を二キロほど離れて丁度ノイシュタットとダイデスハイムに挟まれているので、ワインの地所もその中間の地域に横たわる。隣の町キーニッヒスバッハのイディックとオェールベルクの話題となり、地質サンプルを見せてもらう。石灰質の白い石も混ざり比較的混合した印象である。

ケーニヒスバッハはカトリックの町であり、そのワイン地所は聖書の地名がつけられている。このオェールベルクも、イスラエルの小さな山であるがユダヤ教だけでなくキリスト教やイスラム教によっても信仰の対象となる。旧・新約聖書では、次のように記されている:
And David went up by the ascent of mount Olivet, and wept as he went up, and had his head covered, and he went barefoot: and all the people that was with him covered every man his head, and they went up, weeping as they went up. (2SAMUEL15.30)

さて、ある病人がいた。マリアとその姉マルタのいた村、ペタニアの出身でラザロスといった。このマリアはイエススに香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった女で、その兄弟ラザルスが病気だったのである。(ヨハンネスによる福音11章1-2)

イエススはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行った。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるペトファゲとパタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、.....イエススがオリーブ山の下り坂にさしかかったとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあたゆる奇跡のことで喜び、......(ルカスによる福音19章28-40)

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるペトファゲとパタニアにさしかかったとき、イエススは二人の弟子を使いに出そうとして、言った。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばの繋いであるのが見つかる。それをほどいて連れて来なさい。......多くの人が自分の服を道に敷き、また、野原から葉の付いた枝を切って道に敷く者もいた。(マルコスによる福音11章1-8)

さて、イエススは弟子たちといっしょにゲトセマニという所に来ると、彼らに、「わたしがあちらへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言った。(マタイオスによる福音26章36-44)

それから、イエススは彼らをぺタニアの近くまで連れて行き手を上げて祝福した。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられていった。(ルカスによる福音24章50-51)

この二種類を購入して家へ持ち帰った。帰りに立ち寄った、プロテスタントのギメルディンゲンからケーニッヒスバッハの町にかけてのアーモンドの並木が満開を過ぎていた。人々の流れは、ケーニヒスバッハへの坂道を登っていった。

キリストの昇天の翌日5月18日と19日の両日に開かれる試飲会に参加しようと思っている。
参照:アーモンドの咲くところ [ 生活 ] / 2006-04-19
蜘蛛の巣と云う創造物 [ BLOG研究 ] / 2006-04-21
実も殻もないはなし [ アウトドーア・環境 ] / 2006-04-27
目を覚ましながら [ 文学・思想 ] / 2006-06-09
コメント (12)
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