Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

無色、要・取り扱い注意

2007-03-03 | 生活
先日ルターの本拠地ヴィッテンべルクで独プロテスタント会議が開催された。その内容は十分に追っていないが、その後の論議の一部を新聞が取り上げているのを興味深く読んだ。

何よりもの問題は、プロテスタンティズムの信仰としての影響力の低下のようである。このサイトでもタイトルに違わずプロテスタント精神についてもしばしば触れて分かる様に、実際のドイツ社会の中で敬虔なプロテスタント信仰を強く持っている者は少ない。

それは、この会議で扱われたプロテスタント共同体においての組織活動参加率の低下にも表れている。平均すると二割以下と言われている。つまり、コミュニオンによって正式に共同体へと参加しているプロテスタント信徒の八割が教会活動とは縁が無いと言うことになる。

その活動の中には、合唱やボランティアなどの活動も含まれている。一般にクリスマス以外は教会に行かないドイツ人が通常である事からすれば、日本の神道の新年の参拝に相当している。

これは、宗教心としてのプロテスタンティズムを指すのであって、寧ろそうした宗教にはあたらないプロテスタンティズムが社会規範となっている事から、まさに日本の神道イズムにも近いとする味方も出来るかもしれない。

その質と内容は引き続き考察するとして、今回の会議の改革点に、地方組織つまり土地毎の共同体への重点を弱めて、プロテスタント中央組織が大きな網を被せる事によって、ネット等での結びつきなどの方法を包括して、プロテスタントの力を強化しようと言うものである。

これは、経済的に効率の悪い即ち組織率の悪い地域で説教をするよりも、批判の多いベルリンなどの目立つところで質の高い礼拝をすることに繋がる。これに対して、改革を支持しながらも異議を唱えるのは、シュレースヴィッヒ代表幹事クリスチャン・クヌート牧師である。

その中で、「中央組織は、各々の地方を管轄してまとめ挙げる枠構造を規定するものであって、パートナーシャフトを以っての必要な協調作業や合弁は、下から上へと上げていくもので、上から下へと下げていくものではないとする。」

もちろん、これは、プロテスタントのあるべき姿で信仰告白と言うべきのものであり、封建主義から抜け出した民主主義の在り様そのものでもある。

それを言いかえると、「プロテスタント教会の強みは、各人が福音と結びついていることであって、我々はそれを可能とする事にある」とする。また、「自らが経済的にも授与することで他国においても勢力を伸ばしている。特に中国における熱狂的なキリスト者は、若者達への模範である」とする。

真剣にあるべきプロテスタントとは、「絶えず針の山に暮らすべきで、教義や儀式に陥ってはいけない」ので、「日に日に神の前に自由に立つ事は、しかしキルケゴールの示したように、決して容易では無い」と力説する。そして、「ルター自身、正しい教義や組織や教えを護る事をせずに、生き生きとした神との関係から、その不確定さが生み出されている」ので、「プロテスタンティズムへの傾倒は自らの葛藤として表れる」と語る。

つまり、「こうした不確定さは、啓蒙に対してでもあり、啓蒙と自己批判による活動が我々を破壊へと貶めたものである」が、「我々はそこから抜け出した」とする。

こうした宗教ゆえに、独プロテスタント総長のフーバー牧師が語るように、一度脱退した信者には語りかける事はないが、地域などに縛られない方法で信者に語りかけて行くと言うことになるのであろう。

信仰への不信感や懐疑すらを力強い信仰へのエネルギーと代える事が出来るプロテスタンティズムの力はこれにて理解できるが、大多数の信者にとっては、プロテスタンティズムは血と肉となった生活感や倫理観や世界観であって、意識せずしては自己啓蒙は言うほどに易くは無い。

ナチのゲッペレス博士が言うように、プロパガンダは見えないからこそその効果を挙げるのである。ならば見えないものは、色を付けて見えるようにしなければ、決して安全に取り扱うことが出来ない。
コメント
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