本年生誕100年を迎えたノーベル賞文学賞作家エリアス・カネッティーの「大衆と権力」に「指揮者」と云う項がある。この不思議な権力について示唆に富んで記述されている。
ザルツブルク音楽祭の後任監督候補になっていたと云う、リンツ出身の中堅指揮者ヴェルサーメスト氏をTVで観た。独墺瑞西の共同TVチャンネル3SATは、芸術家のポートレートシリーズを制作している。音楽関係は、大スターが在住する瑞西の利点を利用してチューリッヒのスイス放送SSRが担当している。先日は、地元のオペラ座音楽監督からクリーブランド交響楽団音楽監督になるこの指揮者が採り上げられていた。
そのメガネの光る風貌から冷徹で事務的な否定的なイメージが強いためか、何時かのコンサートでも若い観衆からブーイングが飛んでいたような記憶があるが、良く思い出せない。少なくとも今年聞いたロ短調ミサなどは現代楽器の上演として大変納得の行くものであった。番組でも「アーノンクールのモンテヴェルディーの明くる日には、ヴェルサーメストのルルが来るような劇場の自由度のあり方は、通常思われているよりも遥かに高い質を示している」と語っている。この辺の現場からの見識がザルツブルクに求められたのだろうが、中堅指揮者が候補に選ばれるとは人材不足を否めない。
この指揮者は、ジーンズ履きでトラムに乗り仕事場へとやって来る仕事師で、初めて訪れたクリーブランドの町にその汚さから驚愕したという現代的でシンプルな生活観を持っている。従来のマエストロと喜んで呼ばれるような人種とは違うのだろうか?
カネッティーが示すように、指揮者は個性ある楽器の其々の奏者を一つのユニットに纏めて、そのユニットを総譜と云う憲法を持って、大衆を自由自在に操る。指揮者は、彼を待つ会場に現れ、客に礼をして、独り一段と高みに立ち、背を向けて、楽員だけでなく聴衆にも注意を促す。つまり前方にだけでなく後方にも指示をだす。
そして確りと其々の顔をじっと見る。各々が見られていると感じるように、若しくは従属しているように感ずる様にである。そして、指揮者は其々の意見や思い入れの音をつぶさに聞いて、そして各々が何をするべきか、何をしていけないかを厳密に把握しなければいけない。そして仮借なく、一同を巻き込み、それを実現へと移す。曲が演奏される時には、彼が思い描く作品そのもので無ければいけないのは、彼が世界の統治者であるのと全く同じである。
掻い摘むとこのような事になるのだが、現代の指揮者は「己の才能を強調」して、この役目を演じるか、司祭のように振舞う。その憲法がより大衆の自由度や自主性が拡大するように改正されて来たので、統治者は、バランスを取りながら空中分解しないように、その才能の全力を尽くして奉仕しなければいけない。
参照:賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25
ザルツブルク音楽祭の後任監督候補になっていたと云う、リンツ出身の中堅指揮者ヴェルサーメスト氏をTVで観た。独墺瑞西の共同TVチャンネル3SATは、芸術家のポートレートシリーズを制作している。音楽関係は、大スターが在住する瑞西の利点を利用してチューリッヒのスイス放送SSRが担当している。先日は、地元のオペラ座音楽監督からクリーブランド交響楽団音楽監督になるこの指揮者が採り上げられていた。
そのメガネの光る風貌から冷徹で事務的な否定的なイメージが強いためか、何時かのコンサートでも若い観衆からブーイングが飛んでいたような記憶があるが、良く思い出せない。少なくとも今年聞いたロ短調ミサなどは現代楽器の上演として大変納得の行くものであった。番組でも「アーノンクールのモンテヴェルディーの明くる日には、ヴェルサーメストのルルが来るような劇場の自由度のあり方は、通常思われているよりも遥かに高い質を示している」と語っている。この辺の現場からの見識がザルツブルクに求められたのだろうが、中堅指揮者が候補に選ばれるとは人材不足を否めない。
この指揮者は、ジーンズ履きでトラムに乗り仕事場へとやって来る仕事師で、初めて訪れたクリーブランドの町にその汚さから驚愕したという現代的でシンプルな生活観を持っている。従来のマエストロと喜んで呼ばれるような人種とは違うのだろうか?
カネッティーが示すように、指揮者は個性ある楽器の其々の奏者を一つのユニットに纏めて、そのユニットを総譜と云う憲法を持って、大衆を自由自在に操る。指揮者は、彼を待つ会場に現れ、客に礼をして、独り一段と高みに立ち、背を向けて、楽員だけでなく聴衆にも注意を促す。つまり前方にだけでなく後方にも指示をだす。
そして確りと其々の顔をじっと見る。各々が見られていると感じるように、若しくは従属しているように感ずる様にである。そして、指揮者は其々の意見や思い入れの音をつぶさに聞いて、そして各々が何をするべきか、何をしていけないかを厳密に把握しなければいけない。そして仮借なく、一同を巻き込み、それを実現へと移す。曲が演奏される時には、彼が思い描く作品そのもので無ければいけないのは、彼が世界の統治者であるのと全く同じである。
掻い摘むとこのような事になるのだが、現代の指揮者は「己の才能を強調」して、この役目を演じるか、司祭のように振舞う。その憲法がより大衆の自由度や自主性が拡大するように改正されて来たので、統治者は、バランスを取りながら空中分解しないように、その才能の全力を尽くして奉仕しなければいけない。
参照:賢明で理知的なもの?! [ 歴史・時事 ] / 2005-02-25