10月3日の統一の日である。夏には、移動祭日にするかどうかで揉めていた。昨晩から特番なども多かったが、特に新しい物はなかったようである。ゴルバチョフとブッシュ、コールとゲンシャー、ホーネッカー、モロドフなどの決断と行動や昔話などをして語り合う物が面白かった。何よりもゴルバチョフの政治は、今後とも研究対象となるのだろう。
当時から毎日幾らか書き留めていれば面白かったのだろうが、個人的には今ほど周りを見回す余裕も無く情報源も限られていたので、断片的にしか書き綴れない。動きは1989年の春先ごろから顕著になって来ていたので注意はしていた心算だ。当時は、交換手を通そうとも東側には電話が無くて、家庭に電話が付くまでに何年も待っていたという今からでは全く考えられない状況であった。
その後典型的な何人もの移住者と付き合うことになるが、移住者がそれほど目立つというほどの印象は無かった。当時、目立ったのは東側のナンバープレートで高速道路で煙を吐いて、屋根の上に物を括り付けてのろのろと走るトラバント車であった。また、コール首相が地元にゴルバチョフ大統領やブッシュ大統領を連れて来たのが地元の話題であった。
ワインが実るような十分な収穫の無いままに15年が過ぎたと言うのが大方の見解である。写真は、咋金曜日に撮影した比較的貴腐の進んでいないリースリングの葡萄である。
当時から毎日幾らか書き留めていれば面白かったのだろうが、個人的には今ほど周りを見回す余裕も無く情報源も限られていたので、断片的にしか書き綴れない。動きは1989年の春先ごろから顕著になって来ていたので注意はしていた心算だ。当時は、交換手を通そうとも東側には電話が無くて、家庭に電話が付くまでに何年も待っていたという今からでは全く考えられない状況であった。
その後典型的な何人もの移住者と付き合うことになるが、移住者がそれほど目立つというほどの印象は無かった。当時、目立ったのは東側のナンバープレートで高速道路で煙を吐いて、屋根の上に物を括り付けてのろのろと走るトラバント車であった。また、コール首相が地元にゴルバチョフ大統領やブッシュ大統領を連れて来たのが地元の話題であった。
ワインが実るような十分な収穫の無いままに15年が過ぎたと言うのが大方の見解である。写真は、咋金曜日に撮影した比較的貴腐の進んでいないリースリングの葡萄である。