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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

表情豊かな音楽の語り

2025-04-25 | 
承前)楽譜に全て書いてある。然しそこには舞台との間合いまでは克明に書かれてはいない。経験豊かなオペラ作曲家なら舞台の流れを想像しながら可能性を残しておくだろう。夜の場面で明るいとなると煌々と輝くシャンデリアとかでしかない音楽を書き、演出家はそこで暗さを意識させないことはない。

今回の二幕終わりの精霊流しの前の花の二重唱でも上から歌舞伎などを踏襲して花吹雪が撒かれ終幕が閉じてからのカーテンコールでケートがそこで滑りそうになるまで、場に美的影響を与える。

二日目に隣り合ったおばさんが、折角のベルリナーフィルハーモニカーなのに奈落に入っていて音が籠って仕舞うのが残念と語っていたが、最後には劇場の雰囲気を楽しめたのではなかろうか。二三年前に離婚したとか語っていたが、何かまたそれ迄とは違う観照を得るようになったのではないか?劇場とはそういうものであり、台詞による劇場が朗読とはまた全然異なるように、音楽劇場が演奏会とはまた全く異なることを感じただろうと言いうことだ。

声とのバランスは重要な管弦楽の課題であると共に、如何にその場面を察知して正しい音を出せるかどうかが問われるのが座付き楽団であり、毎夜の繰り返しで舞台をみなくても正しい音が出せるようになっている。

今回初日から三日目へと演奏が変わってきたのは勿論指揮者が出す修正への課題である以上に、その場を聴衆と同じように共通認識として感じて音楽する可能性の幅である。どうしてここまで貪欲にとなると、どうしても来年の「ラインの黄金」を思い浮かべるのだが、それだけでないとも思うようになった。ヴァ―クナーにおけるベルカントの歌声は主役のゲルハーハーが歌うヴォータンへと繋がるが、それ以前に次にペトレンコが振ることになるマーラー交響曲9番へと引き継がれるだろう。如何に劇場音楽の演奏が演奏技術的なことを越えて奏者にインスプレ-ションの飛翔とそして合奏への自主性を要求されるかが理解できよう。語り口ともいえるのか。

一幕における最初の山は初日には山伏の格好をした坊主叔父さんが君が代を背負い、教会に入信した蝶々さんを断罪する場面であった。これは相対的に弱められて、より最初の蝶々さんの登場場面に表現が移っていた。先の「売られた花嫁」序曲を暗示させる主題に対抗するものであり、よりバランスが取れた。

劇自体が二重の意味を持つというのは、ここでは大政奉還後の国体とイタリアでのローマ教会の権威でもあり、フーガに表された摂理と役人の登場での君が代の平行関係、そこに近代化と植民地主義が捉えられている。当然のことながら、そこに男女における性的支配関係も扱われている。

所謂ジャポニズムとされるそれとイタリア人にとっての自らの問題が重ねられて描かれる構造になっているのである。その為に全ての芸術的な粋が集約されているとして誤りではない。そのように創作されている事に気が付くためには、その音楽が劇場でどのような効果を生じされるのかを実感しなければ始まらない。それが本質であり、芸術の姿である。(続く



参照:
諮問されない音楽事情 2025-04-24 | 文化一般
復活祭初日のお出かけ 2025-04-20 | 暦

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