Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

石林の抽象への不安

2005-10-25 | 文化一般
ホロコーストの記念碑を訪れた。連邦議会への招待と並んで、ベルリン旅行の目的であった。実現まで大変に揉めて、未だに賛否両論が飛び交っている。それも現場に行かずに批判している者が多いようである。

黄昏の気配の漂うソニーセンターからポツダマー広場へと向い、交差点を渡り二つ次の一角に広がる石碑の林が記念碑である。比較的好意的な記事などを読んでいても、実際に見ない事には語れない。その石碑は、四方外側では膝下の高さで、中へ行くほどに高くなり、優に三メートルを越えるかに見える高い石碑となる。その足元の地面は、傾斜しながら低くなっているので、全景を見ての威圧感は全く無い。寧ろ、瀟洒な感じさえする。

交差点の角に立った時点で、多くの批判は過ちであるのが一見して分かる。雨に塗れた、スプレー落書き除けの表面は、肌触りも良い。色の感じも陽の加減で温かみもあるかもしれない。それでもその佇まいには、強制収容所址などには無い静けさがあり、鎮魂の雰囲気が味わえる。四方の足元には、小さくプレートが刻まれて、禁止事項がドイツ語で書かれている。上に乗って飛び石をすることは、その意図から禁止されている。初めからそうだったのか、後から付け加えられたのか、如何だろう?

適当にその林の中に歩みを進めると、何時しか空は小さく限られていく。交差点の喧騒も篭った音となり、人々が声も無しに行き交うのが見られる。その廊下の筋から筋へと、人々の気配を感じながら、交差する人と鉢合わせしないように集中して行かなければいけない。ついつい、用心深くなり、感覚が外へと開かれるようになる。流石に林の深まりへと辿りつくとそこに佇んでいるのが苦しい重圧感を感じるようになる。しかしそれは、息の詰るようなものではなくて、次へと足を進める動機となるようなものである。決して誰も、その深みで歩みを止めようとはしないだろう。絶えず、水のように空気のように、流転する。

端の方の石碑の間には、緑の木が植えられているが決して花を咲かせることは無かろう。何故ならばユダヤ教の墓地では花は禁物であるからだ。アウシュヴィッツの門の前に鎮魂の十字架を付けようとしたポーランド人とユダヤ人が争った事がある。お互いのドグマが火花を散らした。如何に鎮魂一つをとっても、原理主義者達は血眼で争わなければいけないかが分かる。このような良心の押し売りの紛争は、一神教や多神教などや、宗教や思想や主義などの差異に関係なく何処にでも存在する。

少なくともこの記念碑は、鎮魂を抽象化して具体的に六感で体得できる様になっている。この抽象化に反対するならば、一体幾つの墓石を立てれば良かったというのだろうか。とてもこの数では足りない。抽象化が気に食わないというのは、自分の知っている月並みで使い古された文化的な意匠を望むと言う事である。それでは一体、戦没者慰霊碑状の物が如何して必要なのか?

抽象化への抵抗感があるのかもしれない。ユダヤ人が想像する世界観を全く否定して、抽象化への努力を怠ろうとするならば、逸早く文明をかなぐり捨てて原始に暮らさなければならない。抽象化こそが人類の思考の粋であることには違いないからである。抽象への不安は、把握出来ないものへの不安であって、グローバリズム批判にもどこか似ている。

写真:ホロコースト記念碑からポツダム広場のドイツ国鉄本社ビルを望む。



参照:
高みからの眺望 [ 文学・思想 ] / 2005-03-09
ゆく河の流れは絶えずして [ 音 ] / 2005-08-01
コメント (9)
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