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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

夢現の古典的な様相

2025-04-26 | 
承前)もう一つ力の入った初日評を読んだ。5点中5点で満点である。然しそれを読んでも分かりにくい面もある。久しぶりにこの音楽に戻って、そのドラマテュルギーの流れを点検する。限られた素材の中での構成となるとベートーヴェンやヴェーベルンを思い出すのだが、そうしたところで余計にモダーンの古典的な様相を感じさせるのだろう。すると古典的とはやはりとても落ち着いた劇場表現となる。

するとどうしてもそうした繊細な表現や構造が見え難くなるという問題が生じる。ドビューシーにも通じるのだろうが、やはり分り難いものがある。そうした虚ろなものこそがここで描かれている世界なのだ。

私事ではあるが、寝起きに夢を見ていたようだ。劇場で、終ってから指揮者のエンゲルと話をしていて、私の初日への批判を知っているかのように、当然修正でよくなるから、初日で語って貰ってもと若干不満気な表情で話していた。如何に私自身がそこに拘っているかということだろう。

残り2回しか観ないことになるのだが、それで全てを聴きとれるだろうかという自信がもう一つない気持ちがこうした夢の状況に表れている様だ。夢での指揮者の不満足な表情はこちらの期待の裏返しにもなっている。

やはり内容がそれだけ難しいのだ。一部二部の流れと、三部の繋がりも中々難しい。公演までにプログラムの見逃している内容にも目を通しておかないといけない。今回はフルテキストが載っていないので、楽譜で見るに留まっている。そこも何かこの作品の虚ろな感じに似つかわしい。

まさしく見えない存在がその主題である。一部では殆どそれはスリラーのように話しが進むのだが、それがどんどんと形が変わって来る。それがもう一つ掌握できていない。

フランクフルトの劇場からは、新たに舞台裏の様子が紹介されていて、一部開幕前から中に浮かんだ地面の上にカウンターテノールの天使が仕込まれていて釣られて待っている様子である。カウンターテノールが下りて来た地面から立ち上がって声を出すのは、一部のあとでの一つ目の間奏曲のところである。

新生児が子供になり、それが最後には王子として連れ去られて消される。それ以外に最初の娘は三部でも王子を護る姉である。答えは音楽的に解消されるのだが、まだ把握できていない。

要するに初日にそこまで分るような演奏が為されていなかったとなる。夢の中で指揮者が不満そうな表情を浮かべるのはそれゆえなのだ。

残された時間でどこ迄核心に近づけるか。来週の楽日が終わると、6月のオネゲルとドビューシーの二作の再演制作へと移る。それを調べるともう少しこの作品への歴史的な視点が定まって来るのかどうか?現時点では皆目分からない。(続く



参照:
昔の若者たちの日曜日 2025-04-02 | 生活
明らかになる現象「死」  2025-03-28 | 文学・思想

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