Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

フランクフルト歌劇場再開

2020-09-07 | 文化一般
フランクフルト歌劇場の再開公演が良かった。先ずは座席のみならずピットの中も模範的な配置にしていたことだ。フランクルト市も一時は新感染指数20を越えようとしていたが、直ぐに落ち着いてきた。まだ高いが、このような市歌劇場が運営されている限り大きな心配はいらない。そもそもヘッセン州の人々はあまり人同士の接触の無い人たちだ。日本の都市に育った者には何でもないことだがドイツの普通の大都市圏の人にとってはよそよそしい人たちだろう。

ピットの中は21人が入って、弦は一人づつで、管との距離も充分に取れていた。トラムペットが上手の入り口に座るなど、ぎりぎりに入った。ある意味模範的な配置なのだが、ミュンヘンの様に客席側に出しても50人ほどが限界だという事もこれから実感できる。フランクフルトの場合は、他の殆どの州立歌劇場と同じであろう。この配置で出来る可能性は限られている、次の段階で距離間を縮めた時に、何が出来るとかという事である。

客席は350席ほどしか入っていなかったのでとても気持ちが良い。手洗いは一人づつ入るように整理していて、これまた気持ちが良い。だから動線の問題も殆ど無かった。パーソナルの人員はとても多い。初日は公演開始が十七分ほど押したようだが、この日は三十分前でもまだまだ余裕があり、会場に一番に入ってマスクを外していた。しかし今後人数も半数近く入れるようになると整理も大変である。

プログラムは問題なくいつものように購入出来て5ユーロ、駐車場は14時37分に入り18時4分に支払った。しかし払ったコインでは柵が開かなかったので管理者の所に行って実際に出たのは18時30分前になった。管理の爺さんは「時々ある」と言ってのけた。管理者がいてよかった。

その駐車場に下りる時の訪問客のおばさんの声を聞き逃さなかった。「正直言って退屈だったわ、音楽は綺麗なんだけど」、私にとっても自分自身の感想と同じぐらいこうした声を重要視する。だからその真意とその人を代表に会場の多くの人若しくは一部の人がそこで何を体験して何を感じたかが私にとっても最も大切なのだ。だからそこから色々と想像する。

恐らく感じからするとしばしばにオペラに通っている人なのだろう。但し定期会員の常連さんではないかもしれない。常連さんにはベルリーニなどの一通りの教育的なプログラムが準備されていて、当日の内容を退屈と思うのは当時の作品に馴染みが無いからか?それとも薄い編成の管弦楽では物足りないからか?ルントシャウの批評にはその点にも触れられていた。

劇場性という事では演出もとても良く出来たもので、「黒ロマン落ち」とそれを包み込む枠としたフィナーレの出し方も全然悪くはなく、新制作時の好評も理解出来た。恐らくフランクフルトでは成功した方の演出だと思う。

それならばその枠内で何が行われたか。結論からすると、エルヴィラを歌ったブレンタ・レェイは今回新境地を掴んだのではないかと思う。彼女のツェリビネッタをペトレンコ指揮で聴いた時はどうしてもその前に聴いたグルベローヴァのそれを思い出してしまうのでお話しにならなかった。しかし、少なくとも今回の歌はこの曲で世界を回るという一つ上の歌唱になっていたと思う。

この歌手と指揮のリニヴとはやはりミュンヘンで仕事をしたと思う。彼女の音楽と助言がその成功に寄与していただろう。第二幕の声の音色は恐らく彼女が今まで経験したものでは無かったと思う。それを引き出した指揮者は、予想を上回る指揮者だった。それも私までが「ペトレンコ一派」などという言葉に騙されていた。彼女がアシスタントとして身に着けたものと彼女の音楽は全く別なものだった。なぜペトレンコが彼女を重宝したか ― 邪推で彼女が彼のタイプの女性であることは分かるのだが ―、リニヴから影響されたペトレンコの音楽もあると思う。なぜ彼女がバレンボイム指揮のサブに入っているか?これはとても分かり易い。少なくともオペラ指揮においてはバレンボイムの指揮を彼女がより素晴らしく指揮するだろう。私なら彼女が振る晩に出かける。(続く



参照:
コロナ死者の為のミサ曲 2020-09-06 | マスメディア批評
社会的距離感への不満 2020-09-01 | マスメディア批評

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