Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

社会的距離感への不満

2020-09-01 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ新聞がぶち上げた。先週の金曜日土曜日のフィルハーモニーでの演奏会を批評している。結論は先に書かない、新聞の見出しでも分かるが、とても面白い。

ここではバレンボイムでは始まらず、ザルツブルクとルツェルンとの比較に繋がるのは、ここベルリンでは450人しか入っていないと、まるで視覚的な雰囲気の虚勢だと書く。ここまで読めば何が言いたいか分かるだろう。

要するに反対側からものを見るとどうなるか?

「照明が暗くなりペトレンコがアインザッツを送り、始まって直ぐに過ぎ去ってくれたならどんなに良かったか」

もうこれだけでノーベル文学賞を上げたいほど衝撃だ。

「ベルリナーフィルハーモニカ―がペトレンコへの尊敬を示したとしても、そのオープンニングのブラームスの四番がどんなに早く明晰であってもそうはいかない」とサッカリンのような一時間半だったと綴る。

再度、「もの凄くバラバラにされた聴衆に対応する最大の間隔を取った管弦楽が」と最大級の不満をぶちまける。そしてスケルツォの受け渡しが八層になった上下でされていたとして、また一楽章のバランスの悪さや三楽章のホルン合奏とか我々も気が付いて向上の可能性とした箇所は全て現状への不満として吐露される。
Brahms: Symphony No. 4 / Petrenko · Berliner Philharmoniker


因みにこの評論のタイトルは「まだ全然よくなっていない」である。いわずもがなである。評論というのは評された本人らが読んで為になるものでなければ意味が無いと思っている。特に新聞媒体ではとっても重要な使命と思う。この文章を読んで指揮者が楽団が何かの為になるかというと、それはなにも我々が指摘するまでもなく修正箇所として挙がっている事であって、特別な視線というものが活かされていない。そこから何も学ぶことが無い。駄々をこねた親仁の殴り書きとしか思われない。

それどころか案の定最後にバレンボイム指揮のシュターツカペレは、同じフィルハーモニーで、「そんな革命的な動きへの信頼で何かを変えようとするような指揮者ではなく、彼と彼の音楽家が確信をもって、フィルハーモニカーよりも気持ちよく整って聴かせるものは、全てを愉しむ人の柔らかな感覚の繊細な痛みや自然の温かみであった」と、「欧州における緊張の中での平和だ」とその時にうっとりしている。「モーツァルトのこうしたものこそが何時でも人に必要なものだ」と結んでいる。

見事である、しかしバレンボイムのネオロマンティズムのそれを全て語っているとも思えない。誰も相対的に現象を見ている訳ではないが、バレンボイムのマスク着用発言から我々がその意味するところに反応したように、この筆者は恐らくそうした一連の動きを捉え乍ら再カウンターを放っていると思う。

ネオロマンティズムなどポストモダーンでとても古臭いと思うが、国会前で反コロナ対策デモの行われたその週末にフィルハーモニーの中ではこうした夢想がなされている。バレンボイムの「マスクをさせて客席を埋めよ」のスローガンは、ここで科学的な思考などは悪態をつく対象でしかないとする夢想家と趣を一つにしている。

奇しくも冬に同じ協奏曲を弾いたバレンボイムの代わりにザルツブルクでベルリナーフィルハーモニカーとの公演をしたトリファノフの演奏に対してロマンティックという言葉が投げかけられて、またバレンボイムの同じ演奏にまるで重い赤ワインのようだとされた。その芸術性には共通性がある。



参照:
Noch ist nichts wieder gut, Gerald Felber, FAZ vom 31.8.2020
忖度無いジャーナリズム 2020-08-30 | マスメディア批評
音楽会を愉しめるように 2020-08-29 | マスメディア批評

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