Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

矛盾のザルツブルク音楽祭

2020-08-12 | マスメディア批評
承前)批評が大分出て来た。ザルツブルク、ベルリン、ザルツブルクで三回行われるレヴィトのベートーヴェンツィクルスへの批判が厳しい。人気があって売れっ子であるから、どこまで突っ込むかは考えものだが、分かっている人はそもそも足が伸びずに、兎に角宣伝力もあるのでという聴衆に向けて、また本人に向けて書いているのだろうか。大体SONYレーベルのタレントの実力は似たり寄ったりである。なにもレヴィットが悪いピアニストではないのだが、グルダやソコロフに比較されて、「能力重視時代のピアニズム」とされると本人もAfDに対抗するようには反論できないだろう。

それが打って変わって、ネルソンズ指揮のマーラーの六番を誉め殺ししている。その指揮振りからまるでハプスブルク時代の臣民の指揮のようだと表現して、大抵は(その亡き師匠が言ったように)年老いてから身に着ける節約の指揮をして、いつものように自由度を高めつつ精密さを失わないという事を揶揄している。明らかに核心を隠した物言いで、こちらは読むご本人を想定している ― その独語力が試されていて厭らしい。ここまで回りくどい言い方は私はしないが、まるでこの曲が大戦のカタストロフを予見させるようだとトーマス・ザンデリンクの言葉を引用して、それにアナログに夢見るようにフィナーレへと向かう演奏をおいて、今日明日にでも起こるであろうサドンレスの音楽祭の中断を思い描かせる。

そこでもコロナ安全対策万全での音楽祭開催とされる。しかしそれは真っ赤な嘘である。万全の対策で収益性を犠牲にすることは無いようにあれだけ人を詰め込むのだ。開幕一週間経過を前に場内の開演前アナウンスが変わった。気温が急上昇する週末前に扇子の使用が禁止になり、アエロゾール感染への対応となった。空気感染するならば到底二席に一人の座席配分間隔では足りない。最低1.5mの間隔は保たれるべきなのである。音楽祭は矢張り収益性しか考えていない。最低三分の一までに収容人数とするべきであった。

更に大きな矛盾を露呈させている。休憩での密を避けるために動線を把握しやすいように休憩無しで上演すると決定された。しかし、現実には入退場で人が入り乱れている。それどころか奥の席に着く人が、先に座っている人の前を通る。もはや濃厚接触数秒である。

音楽祭が真剣に安全対策を練ったのではなく、形だけのマニュアルを制作したのは明白である。証拠は幾つも挙げられる。先ず場内整理が全くされていない。ホールに入る各入り口では通常の案内しかしない。少なくとも真剣にザルツブルクからヴィースバーデンやドルトムントに人を遣わせるなり、情報を交換していれば決して有り得ない処置である。もし、会場内で感染が広がれば刑事告発される可能性が強い。その時には証言をする心算である。

要するに先ずは半数の聴衆を入れることが先にあり、その時の処置として先ずはマスク着用、個人の同定と連絡先が付け加えられて、休憩無しから扇子使用の禁止へと進んだ。それどころか公演中もマスクの着用までを高額を取りながら推奨するようになって、愈々責任逃れへと動いている。百年の伝統の文化団体の体を為していない。

このことはミュンヘンでも把握していたのだろう。だから「ザルツブルク音楽祭にいって感染を避けるにはスポーティである必要がある。」と多くの市民に注意を促した。(続く



参照:
Danach wird das Leben anders sein, JAN BRACHMANN, FAZ vom 10.8.2020
すわ、コロナ吐血か 2020-06-23 | 雑感
ザルツブルクの崖っぷち 2020-07-29 | 文化一般
ヴィースバーデンモデル 2020-05-22 | 文化一般

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