Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

抑制の美の厳しい激しさ

2018-10-04 | 文学・思想
寒くなって来た。まだ暖房は要らないが夏のような井手達では風邪をひきそうになる。上手く移行したい。朝の森は霜こそ降りていなかったが、もうそこであった。いつまで裸で走れるだろうか。そろそろ身体を追い込んでいきたい。

「マイスタージンガー」のことを走りながら考えていた。動揺と書いたが未だにその漣が収まっていない。演奏実践による表現手段として明らかに新たな所へと関心が移った。この夏のルツェルンでのハックマン氏が言及したコムパクトネスへの言及が大きな転機となった。もしかするとそれを読んで指揮者キリル・ペトレンコもより意識するようになったかもしれない。良い批評とはそういう言語定着化にある。

今回の公演の特徴は、既に書いたが、その激しさがどのように表現されたかが重要で、その典型がミヒャエル・フォレの歌唱だった。殆どぶっつけ本番であったが、とてもいいところを示した。その歌唱が声量も圧倒的ながら基本的にはコムパクトネスによる節度ある歌が基本になっていて、そこに付ける音楽はペトレンコ指揮の座付き管弦楽しかありえないと思わせた。バイロイトでの楽団が絶対にジョルダンの指揮からは出せないコムパクトネスである。しかし2014年の「指輪」上演でペトレンコがどこまでそこで聞かせていたかというと、やはり今とは大分違う。それどころかこの夏のベルリナーフィルハーモニカーとのツアーがある前の「ジークフリート」では今回「マイスタージンガー」で示された程にはそれが意識されていなかったと思う。しかし今こうやって振り返って見れば、二月に試みていたあれほどのドライな演奏実践が今はこうして別な認識の下で捉えられるようになって、そこで初めてあれだけの激しい表現が可能になったと思う。まさしくバイロイトにおいてその表現方法が今回ほど確立していなかったと思っても間違いない。

技術的には、楽員が細かなところまで箸の上げ下ろしではないが、弓の上げ下ろしまで細かく検討して更っていたからに違いない。もしかすると確かコンツェルトマイスターを務めていたアルバン・シュパーイに腕があるのかもしれない。コントラバスまでとても素晴らしい仕事をしていて、これならばヴィーナーフィルハーモニカーより上だと思った。そうしたきっちりと固く振られるところと、激しく振られるところとの差も然ることながら、決して逸脱することなく矜持を正した表現によってこそ、途轍もない効果が生じるという技術的な面と、それと同じぐらいにその厳しさが自己抑制によってこそ初めて生じる ― またまた出ましたブロムシュテット氏のお言葉が。そうした抑制ゆえに、はち切れんばかりの情動的な音楽表現がドイツ音楽の深みのある美的表現へ昇華されるという美学がある。抑制の美である。

まさしくキリル・ペトレンコの音楽が激しさや厳しさ、そして同時に深みや端正さに彩られるようになって来たとすれば ― 勿論彼がベートーヴェンの音楽とより深く対峙するように成ったからでもあるかもしれないが -、その特性を示す表現とされるものであるだろうか。そうした美的表現の深化を目の辺りにするようなことが無かったので、普通ならば継続して観察していては少しの変化にはあまり気が付かなくなるものなので、驚いているのだ。そしてその情動的ともいえる厳しさの漣がひたひたと繰り返しおし寄せる。

旅行に出かける予定が変わったので、近々のコンサートカレンダーなどを覗いてみた。予定が空けてあるので、都合が良さそうなものを探してみた。チューリッヒでのヤルヴィ指揮のコンサートもあるが、今回は近場で更にいいのを見つけた。初めてのアンドリス・ネルソンズの指揮の会だ。カペルマイスターを務めるゲヴァントハウス管弦楽団が小欧州ツアーをする。指揮者の離婚した歌手のオプラウスがチャイコフスキーのオペラから二三曲歌う。これは座付き管弦楽団としての腕前を聞けるので価値がある。新曲で始めて、この楽団に合うかどうかというところのマーラーの第一交響曲が演奏される。プログラムが考えられていて、このネルソンズ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーのようには期待出来ないが、大分いいところを突いて来ているのではないかなと思った。昨年の就任コンサートなどを放送で聞いて失望したが、生で体験して確かめられるだろう。勿論良くなっている可能性も大いに有る。

何時ものように金の事を書くが、どうしても市場を把握しておくことは芸術的にとても重要なのだ。本拠地では5ユーロの次が21ユーロで、まあ劇場価格だ。一晩のギャラは安めなのだろう。アルテオパーでも29ユーロと先日のヴィーナーフィルハーモニカーの22ユーロよりは高価であるが、2016年のミュンヘンの座付き管弦楽団よりは安い。あの時は36ユーロほど掛かったので断念したが、今回は手数料込みで31ユーロしない。ライプチッヒまでは遠いのでこの価格で充分嬉しい。兎に角、ザルツブルクで断然素晴らしかったネルソンズの指揮が楽しみである。



参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
「憎悪され、愛されて」 2018-10-02 | 文化一般

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